神田神保町、ホンモノの「街の大人」になれる居酒屋
【連載】幸食のすゝめ #003 食べることは大好きだが、美食家とは呼ばれたくない。僕らは街に食に幸せの居場所を探す。身体の一つひとつは、あの時のひと皿、忘れられない友と交わした、大切な一杯でできている。そんな幸食をお薦めしたい。
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- Summary
- ・神保町で最も古い路地の終点
・往時は女人禁制だった
・お湯割りと本場仕込みの中華で
幸食のすゝめ#003 燗した芋には幸いが住む、神田神保町。
帝都には幸いが住む、そう信じていた。玄界灘に面した海辺の街、唐津と博多を転々としながら育った僕には、東京は夢の都だった。志望校の入試に落ち、初めて飛び込んだ高校の進路相談室。九段にある大学の二次募集を見つけた。「神保町が近い」、ただそれだけの理由で、僕は自分の一生を決めた。九段という地名を覚えたのも、岩田宏の詩だった。現在も続く詩誌ユリイカを創った伊達得夫へのレクイエム『神田神保町』。「ここ 九段まで見えるこの石段で 魔法を待ちわび 魔法はこわれた」。
暗唱していた詩の街に、僕は昼休みも放課後も通い詰めた。靖国通り沿いの古本屋を何軒も冷やかして回り、腹が減ると、当時まだ一軒しかなかった「いもや」や、「キッチン南海」、「スヰートポーヅ」に飛び込んだ。懐が暖かい時は、「おけ以」や「ランチョン」で酒を飲んだ。だが一軒だけ、どうしても1人では入れない店があった。「ラドリオ」から始まり「ミロンガ」へ抜ける、神保町で最も古い路地の終点に位置する「兵六」だ。当時はまだ女人禁制、若造が出入りする場所ではなかった。
兵六の初代、平山一郎氏は藤島武二が師事した四条派の画家平山東岳の子孫にあたり鹿児島に生まれた。後年、上海に渡り東亜同文書院に入学、かの魯迅とも邂逅している。敗戦後、無一文で引き揚げ、兵六を開く。売りは、氏の故郷である薩摩の芋焼酎、同じく九州の球磨焼酎、麦焼酎が一種ずつ。現在のブームからは想像し難いが、当時、ビールもなく乙類の本格焼酎を出す店など皆無だった。つけあげ(薩摩揚げ)やキビナゴなど各種の薩摩料理と共に、炒豆腐(チャードウフ)や皮から手作りする餃子が並ぶのは上海時代の青春の名残だ。
昭和の文人が通い詰めた
壁にずらりと並ぶ色紙は、巷を賑わす芸能人たちではない。林芙美子に、高村光太郎、壺井繁治、吉屋信子。何れも昭和を代表する文人たちの達筆だ。「秋が来て 友の差入れてくれた 林檎一つ 掌(てのひら)にのせると 地球のように 重い」、思想犯として、壺井繁治が獄中で詠んだ詩を読むたび、目頭が熱くなり、さつま無双の杯が進む。しかし、ここでは一人三合までという暗黙の戒律がある。人にからむ輩、愚痴をこぼす者もいない。皆、兵六という空気に敬意を表し、静かにおとなしく丸太のベンチシートに並ぶ。
本来、酒場は身銭を切って学ぶ、男たちの学校だ。円周率も九九も、女たちの捌き方も習えないが、真っ当な人生で必要なものの殆どすべては、酒場の喧噪の中に、無造作に放り出されている。その真偽の程を確かめたければ、兵六の末席でご常連たちと並んでみることだ。現在は甥にあたる三代目の真人さんが、見事に兵六の威厳を守り抜いている。今ではビールも出し、女性たちの笑顔にも遭遇するが、「他座献酬、大声歌唱、座外問答、乱酔暴論」という初代が定めた四戒はしっかりと息づいている。
お湯割りの頂点!
と、ここまで敷居の高さばかりを紹介したが、実はここほど心が安らぐ酒場を知らない。芋のお湯割りは、予めガスで燗をつけ、小さな薬缶に入った白湯を添えて出される。ゆったりと自分好みの濃さで嗜む、さつま無双は極上の旨さだ。郷土料理や、本場仕込みの中華も申し分ない。あの日、先輩の後に続き、兵六の門を叩いて40年。自分の足で、本の街神保町の兵六に通い、個性溢れる諸兄とお会いできることは、酒場を愛する者の至福だ。燗した芋には、幸いが住んでいる。
<メニュー>
さつま無双700円、炒豆腐600円、餃子600円、糠漬七種盛550円、予算2,500円くらい
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。
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兵六
- 営業時間
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17:00~22:30
定休日:定休日 土曜・日曜・祝日
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。
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