京都の「おばんざい」という言葉遣いの「何もわかってなさ」について
【連載】正しい店とのつきあい方。 店や街とのつきあい方がわからない人が増えている。初めてなのに常連と同じように扱われないと怒る人や金さえ払えば何でもしてくれると思う人。お客様は神様、などではない。客としてのあり方を街と店に深い考察を持つ江弘毅氏が語る。
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- 1.日本ではじめての割烹の3代目の言葉に真実を見た
2.「グルメ情報」からの「京都」の底の浅さ
3.個性的な店に、京都も大阪も東京もない
京料理とは何か?
和食がユネスコの無形文化遺産に登録されてもう3年になる。
農水省のHPを見ると「和食;日本人の伝統的な食文化」が正式名称らしい。
まさに登録される2013年12月、4日付の朝日新聞に『浜作』の森川裕之さんの長いインタビューが載っている。
わたしはちょうど『波』(新潮社)に『有次と庖丁』(単行本は2014年発行)を連載していて、「京料理とは何か」ということを考えていたこともあって、切り抜きが残っている。
朝日の萩一晶さんという記名がある記者はなかなかの質問で、日本で初めて「割烹」という店舗形態をつくった[浜作]の3代目に迫っている。
ちなみにお読みのみなさんがご存じがどうかはわからないが、板前割烹の嚆矢である『浜作』は大阪の廓・新町に大正期に創業している。
排他的だから「京料理」でいられたという事実
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——京料理の世界でも、最近は海外に打って出ようという話が盛んだそうですね。
「先進的で意欲的な人が海外と交流しようという話なら結構なことだと思いますよ。でも本体の日本料理店はグローバル化とは無縁であるべきで、ぶれたらあきまへん。私は話は逆やと思うんです」
(略)
「ミシュランに意見を言ったのもそう。西洋料理と日本料理は成り立ちも目的も違う。同じ尺度で測って星で格付けするのはやめてください、とお願いしました」
——あの、星が一つだったから怒っておられる?
「違います。最初からです。星が三つやったら、もっと威勢良く言ってました」
(略)
——ただ、新しい挑戦も時に必要ではありませんか。
「百の伝統を繰り返し習得した末に、初めて新しいもんが一つ自然と生まれる。それが前衛でしょう。しかし、いまあるのは時代の共感を得ようとするあまりに、単なる迎合で終わってませんか」
「東京一極集中の波に料理界が飲み込まれなかったのも、京都人がお山の大将でいたからです。ある意味、排他的だったこそ京料理が残った。日本料理も、いい意味の独善性を保つべきです」
——和食の売り込みには食品の大手企業もたくさん加わっています。人気が高まれば日本の食材や調味料が売れる期待があるからでしょうね。
「そうでしょうな。でも、それは商売の話でしょう。それを文化を残す話と混同するから違和感が出てくるんです。ユネスコの無形文化遺産への登録にしても、そこは区別すべきでしょう」
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(朝日新聞2013年12月4日 森川裕之さんインタビュー記事より)
私はこういう森川さんの「街的」な感覚が大好きだ。
『外国から日本に来てもらえばいい。元のまま食べていただいて、おいしいと言わはるかどうかという話。
日本には1億以上の人口があるから、日本人にほんまもんを食べてもろて、おいしいと言っていただくのが日本料理屋の本望であるべきだ。それで十分やっていけるから。』
とまで言い切っている。素晴らしいなと思う。脂ぎった顔をして割烹着でメディアにやたら露出しているいる企業家料理人と違って、まことにすがすがしい限りだ。
「京都らしい」グルメ情報を求めても空虚でしかない
「京料理」は「京都が特別」というブランドに支えられている部分が大きい。
永禄3年(1560)桶狭間の合戦の年が創業だという錦市場の鍛冶匠[有次]の庖丁もまさに「京ブランド」そのものだ。
けれども有次十八代目当主が「うちの和庖丁はメイドイン堺です」と言い切るところに、そのブランドの凄みとすがすがしさがある。
わたしのまわりには、多くの京都の星付き割烹料亭が大阪ミナミの「黒門市場」の老舗乾物屋から利尻産の昆布や枕崎産の鰹節を入れていることを昔から知っている者が多いが、いちいちそういうことは言及しない。
もちろん「京ブランド」で商売をやっている当の割烹料亭も、わざわざそういうことは言わない。
隣の隣の街(ぐらいになるのか)である大阪にいると、京都が特別だとは思わないことが多い。というのは大阪のわたしらが「京都にあって大阪にないもの一般」を抽出して消費しようという志向性を持たないからだ。
大阪という都市は、JR大阪駅から環状線でひと駅の天満で降りても、逆回りでひと駅の福島で降りても、まったく街の手触が違うのが分かる。
もっと狭いエリアを見てもそうだ。ミナミの場合だと、心斎橋筋あたりと御堂筋を渡ってすぐのアメリカ村では、店もそこに集まる人もがらりと変わってくる。
つまり同じ都市内において隣り合う街は「違う街」なのだ。その違いがあることが「当然」であり、その「違っていること」において「同質的」なのが大阪だ。
だから隣の隣の京都も、「大阪とは違うこと」があらかじめ織り込み済みだし、さらに三条と四条が違う街であることを当然だと思っている。
もっとも京都の人間にとっての大阪もしかりで、たとえば梅田界隈と北新地、千日前あたりと難波が全然違う街だということについてはアプリオリな認識である。
ただしその「違いの違い」は飲食店の範疇によって微妙だ。
わたしは京都にたくさんの旧い友人がいるが、その友だちは明らかに東京の友だちとは違う。話す言葉にしろ、うどんのだしの嗜好や、てっちりの食べ方にしろ、京都は(神戸も奈良もそうだが)大阪とあまり変わらない。
だから錦市場の漬物屋の友人に連れて行ってもらう祇園の割烹[橙]の料理は、[橙]のおやっさんの料理にほかならず、そこにわざわざ「京料理」という記号を付加したりしない。
またその友人I宅でごちそうになる晩飯のおかずは、「Iの家の料理」であり「京都のおばんざい」などとは言わない(すなわち思わない)。
けれども顔と顔の関係性がない、グルメ(消費)一般情報によって消費される店の料理は「京都のおばんざい」になってしまったりする。そういう意味では「奈良のおばんざい」というのも消費情報的には「大阪の串カツ」と同様で十分にありか、などと思う。
グルメ情報をもとに「京都らしい」ものやイメージを求めて、あっちこっちと食べ歩くことは無効でつまらないと思っているのは、例えば割烹料理店にしてもその店や板前料理人の個性や特徴が前景化しているだけで、「大阪料理」というジャンルが記号的に分節されていないのと同じように、「京料理一般」というのはないという認識がわたしにはあるからだ。
「街的な人間」の店の選び方について
大阪の料理屋と京都のそれ双方に慣れてくるとわかるが、京・大阪をコアとした上方の料理屋や酒場は、どの店もやり方からして違う個性的な店が多いのが事実だから、1番も2番もないし、地元の街場の人間は星の数やランキングを気にして店を選んだりはしない。
そこで出てくる食べ物や酒も、店のつくりや空気感も、それこそ特別な店ばかりなのだ。
「京料理とは何か」を知ることは、例えば隣の隣の街である「大阪のそれ」とはどう違うかの境界を見つめることだ。
そしてその境界線を定めないと、そもそも「分節」されないはずだ。
そういう意味で、明治35年(1902)創業という大阪屈指の歴史を誇る道頓堀『大黒』の唯一無二の「かやく御飯とおかず」を食べると少しは分かってくる。
つまり「京都のおばんざい」と「大黒のおかず(あるいは料理)」はどう違うのか。
それは「当然のこと」として、店の何から何まですべてが違いすぎるからだ。そういう見方をすると、具体的店名をもって能記する「○×のおばんざい」しか浮き上がってこないのだ。
しかし、いや[大黒]のは「おばんざい」と違うな。
つまり「おばんざい」というのは京都の言葉であり、大阪では「おかず」にほかならない。いや「惣菜」か(これもぴたっと指し示さない)。
京都で食べるからこそ「京都のおばんざい」である。
※江弘毅さんのスペシャルな記事『いい店にめぐり逢うために知っておきたいこと』はこちら
大黒(ダイコク)
- 電話番号
- 06-6211-1101
- 営業時間
-
11:30〜15:00、17:00〜20:00
定休日:定休日 日・祝・月曜
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
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