「造り手たちの想い」と「自然」に恩返しするために。幡ヶ谷『さぶちゃん』有澤貴司シェフの約束

【連載】vs.corona時代の飲食の明日へ#004 ある時は喜びを2倍に、ある時は悲しみを半分にしてくれたもの。それはいつでも、おいしい食や酒だった。「おいしい食で目の前の人を喜ばせる」ことを意義としていた料理人は、変わりゆくテーブルの風景に何を想うのか。“食”の明日に向かってアクションを続ける人たちの声を訊く。

Summary
1.毎日100食、医療従事者にお弁当を無償提供し続けた『ル・ジャングレ』有澤シェフ
2.料理人を目指したキッカケは、大好きなおばあちゃんとの約束
3.2020年6月には、焼肉店『さぶちゃん』を幡ヶ谷にオープン

雲の向こうにはいつも眩しい夢がある

酒場かもしれない、レストランかもしれない。チェット・ベイカーという名前に聞き覚えがなくても、一度聞いたら忘れられないワン・アンド・オンリーの歌声は、頭の片隅にきっと小さく残っているはずだ。メロウなのにまっすぐ、物憂げでアンニュイなのにピュア、どこまでも神秘的で中性的な声。

一時は、東京中の飲食店でBGMの代表格として、エンドレスで鳴り響いていた。

1954年に発売された『Chet Baker Sings(チェット・ベイカー・シングス)』は、やがてブラジルでヴォサノバ誕生のきっかけにもなった。歌われているのは、グレイト・アメリカン・ソングブック(いわゆるスタンダード)、どれも手垢がつくほどに歌い継がれた名曲ばかりだ。チェットの歌声は、おなじみの曲たちに瑞々しくリリカルな表情を与えた。

その中に『Look For The Silver Lining』という曲がある。ライニングとは、ジャケットやコートなどの裏地で、この歌は英語のことわざ“Every Cloud Has a Silver Lining”が元になっている。

“どんな雲(暗雲=逆境や不運)だって、銀の裏地(雲の縁に見える光=希望)を持っている。”

「青空に雲が現れた時には、銀の裏地を見つけようよ♫」というポジティブで明るい表情を持った歌だ。

苦しみの季節を喜びの記念日に

「今年の黄金週間はステイホーム・ウィークにしましょう」、そんな小池東京都知事のひと言から始まった忘れられない日々は、青空と満開の桜に彩られた。しかし、日本中の人々の心の中には暗い雲が立ち込めていたはずだ。

そんな中、東京の片隅で“銀の裏地”を探し続けた人物がいる。この暗闇の日々の中、彼は新店をオープンさせると言う。

僕はチェット・ベイカーが歌う『Look For The Silver Lining』を聴きながら、いつのまにか顔の一部になったマスクを付け、眼鏡とヘッドフォンで幡ヶ谷に向かった。

そこには、この季節、私財の持ち出しで医療関係者への弁当を作り続け、臨月の妻を支えながら、たった4日間で焼肉屋をオープンさせた優しいヒーローがいる。

6月10日、しかも、今日は彼の誕生日だ。

コロナ自粛から、医療支援の弁当作り、そして娘の出産、新業態である焼肉屋の開店。

きっと37歳のバースデイは、一生忘れられない記念日になるだろう。

医療関係者に惜しみないエールを

「今回、先が見えない中で、僕の店『ル ジャングレ 』とか、正直言ってどうなるか分からないし、もしかしたら潰れるかもしれないと思った。だけど、ここで守っててもダメだし、どうせ潰すんだったら、自分の好きなことをやって潰そうと思ったんです。その責任は全部、自分で取るつもりだった。そう決めると、何だか気持ちが急に楽になっちゃったんです。だから、家賃保証とか休業手当とか、まだ決まってない時期から、とにかく弁当作りを始めたんです」

自然派ワイン『アフリカンブラザース』のTシャツを着た有澤(貴司)シェフは、目を細くして思い切り笑った。その決断は、つい1ヶ月前、だが、とてつもなく長い日々だった。

「弁当作りを始めてすぐ、古くからの常連のお客さんが現金30万円と差し入れを持って来てくれたんです。運送会社の社長さんで、荷物が減って、飲食業と同じくらい大変な状況。でも、『お互い厳しい者同士だから、どうしよう?じゃなく、何かやり始めよう!』って、すごく勇気を貰いました。その後も次々に協力してくれる人たちが現れて、チーム・ジャングレができ上がっていったんです」

その中には、いつも店がお世話になっている生産者たちの支援もあった。

4月27日のSNSには、有澤シェフの素直な声が綴られている。

「この1ヶ月、出口が見えない暗闇の中を彷徨い続けてきましたが、自分達で『あかり』を灯してみる事にしました。本日より、渋谷区、新宿区の救命医療センターへのお弁当の無償提供を始めました。

まずは、1日100食。病院名は非公表とさせて頂きますが、恐らく東京の医療現場の最前線である、2つの大きな病院です。毎日行きます!

そして、声がけした生産者、業者さんからも食材や調味料の無償提供を頂きました! 心より感謝申し上げます。お店を閉めて1ヶ月、ル ジャングレも非常に大きな痛手を負っておりますが、どこも一緒。みんなで協力してベストを尽くしたいと思います! 応援宜しくお願いします」

何気なく上げたSNSは、瞬く間に反響を呼び、医療支援の輪はどんどん大きくなっていく。

豊洲市場青果部の『正義青果』からは、たくさんの野菜。愛媛県大洲市の『株式会社 梶田商店』の梶田さんからは、「巽(たつみ)天然醸造丸大豆醤油」6升。

豊洲市場『コトブキフーズ』からは、チーズ各種。『どろんこ農園アリさんファーム』からは無農薬の野菜。対馬『フラットアワー』からはヒラスズキが届き、そのほか総勢50名からの食材支援。

途中からスタートした(支援)プロジェクト「フードフォワード」には、64名からの寄付も集まった。

西麻布『伊勢すえよし』田中シェフ、池袋『ビストロボアドッグ』西中シェフ、『食幹』山崎シェフ、『小泉料理店』小泉シェフ、そして『ル ジャングレ』全スタッフがボランティアで支えてくれ、最終日の5月29日まで医療関係者へのエールは続く。

運んだ弁当は、2,650食に及んだ。

「早朝からの弁当作りに、配達。慣れない仕事のはずが、だんだん楽しみな仕事へと変化していったんです。そして、緊急事態宣言の解除と共に、僕らの役目も終わりを迎えました。最後の配達は、忙しい中、救急センターの方々総出で出迎えてくれて、一人ひとりのお礼の寄せ書きももらいました。やり遂げた気持ちと、同時に寂しさが込み上げてきました。もう、この光景が2度と見られないかと思うと、凄く寂しくなって…」

そんな中、以前から探していた焼肉屋の物件が、まったく同時期に見つかる。

おいしいものは誰かの人生を変える

富山県射水市で生まれた有澤シェフは、母が経営する美容室に繋がる実家で育ち、漠然と母・姉と同じ、美容師への道を考えていた。東京の美容学校に行くことが決まり、一人暮らしが始まるから自炊でも覚えよう。そんな気持ちで、地元で愛される洋食屋『ビストロふらいぱん』でアルバイトを始める。

少しずつ仕事に慣れたある日、友だちと遊びに行くため仮病を使い、店を休んだ。

「翌日、店に出たらマスターにはすべてお見通しで、すごい剣幕で怒られたんです。『みんな遊びでやってるんじゃない、真剣なんだ。お前も真剣にやれ』って。自分が(ちゃんと)やんないと、みんなに迷惑がかかる。高校生の自分だって、誰かに必要とされてるんだと感じました」

家でも怒られることがなかった有澤少年にとって、初めての経験だった。そこでは、その後の人生を変えることになるクレームブリュレにも出逢った。生まれて初めて食べた味の衝撃を、有澤少年は大好きなおばあちゃんに届けようと思った。

「当時、おばあちゃんは末期ガンで、しばらく食事をとってなかったんです。延命(治療)でなんとか点滴してるだけ、口から食べることはなかった」

届けた次の日、電話が入る。
「おばあちゃん、全部食べたよ」、2週間ぶりの食事だった。

「なんか料理っていいな」と思い始めて、おばあちゃんの前で将来の夢を語った。それは考えたこともなかった、料理人という道だった。

「クレームブリュレで自分の人生が変わったみたいに、おいしいものには誰かの人生を変える力があると思ったんです。たぶん、人の気持ちが込もったものが、そうさせるんだと思う。それが、僕の始まりでした」

今回、医療関係者への食の提供、焼肉屋の開店。一見、繋がりそうにない2本の糸は、「人の気持ち」という針で紡がれている。

自然派ワインを普段着の酒に

京王新線幡ヶ谷駅、改札口を出て2分の場所にある『焼肉 ホルモン さぶちゃん』。

6月4日の開店以来、訪れる客たちが驚くのが肉のおいしさや安さはもちろんのこと、冷蔵庫に無造作に入れられた自然派ワインの値段だ。

『メンティ』や『ルイ・ジュリアン』、あの『ラディコン』でさえ、3,000円代の価格設定。そこには、自然派ワインの造り手たちへ向けた、有澤シェフの愛が込められている。

「ウチの『ル ジャングレ』もそうなんですけど、自然派ワインの店って(ワイン自体での)利益を求めてやってないので、この時期、みんな危機に瀕していると思うんです。それは(ワインの)造り手も同じで、大変な思いをして造ったものが(店が休業してるので)売れない。野菜や肉、魚も同じなんですけど、生産者の想いが強い、素晴らしいものほど、この(コロナ)時期、危機に瀕してしまう。みんな一般消費者相手ではなく、レストランや酒場に直販してる所が多いからです」

今回、『mondo』などのレストランがテイクアウトを始めた理由も、いつもお世話になっている生産者たちへの発注を絶やさないためだった。

「だから、こういう店で、ある程度量を捌いていくことで、造り手たちや貴重なワインを輸入しているインポーターさんにも何かしらの恩返しができるんじゃないかと思ったんです。もちろん、素敵な店で素敵なワインを飲むのは大切なことなんですけど、ここみたいな店がないと、悪い時期には(自然派ワインを)売れる店がなくなってしまう。ちゃんとサーヴしてほしい、(グラスに)注いでほしいと思う方もいらっしゃるかと思うけど、そこは値段で目をつぶってほしい。

『素敵じゃないお店で、自然派ワインを飲む』っていうのがコンセプトなんです。だって、楽ちんじゃないですか。ちゃんとおいしいワインが飲めて、おいしい肉がたくさん食べられて、しかも安上がりで、みたいな」

クレジットカードが使えないことにも理由がある。実は膨大なコストになる(カード)手数料の分も、来てくれる客に還元したいと考えたからだ。

本当の肉のおいしさを伝えるために

焼肉屋を始めたいと考え始めたのは、ある女性との出逢いからだった。

牛肉卸を生業とする、『東京宝山』の荻澤(紀子)さんだ。生産者と飲食店を繋ぐ荻澤さんも、この時期、困惑していた。先が見えない状態の中で困惑し、行動を決められない飲食店からの発注はストップした。

しかし、牧場ではいつものように緑が芽吹いて、仔牛が次々に生まれ、ぴょんぴょん飛び跳ねている。春が来れば、生命が生まれ、その生命を2、3年後の出荷に向けて粛々と育てていく。牧場の時間はウイルスとは無縁に流れていて、命の営みを止めることはできない。

荻澤さんが力を入れて扱うのは、霜降りを最高級とする日本の一般的な食肉市場だと評価されにくい、岩手の「短角牛」や、熊本の「あか牛」など、それぞれの風土や地域資源を生かした健康的な赤身肉を育てることに情熱をかけている生産者の牛肉ばかりだ。

「荻澤さんと知り合って、霜降り信仰が強い日本で、生産者たちの想いが込もった(サシの少ない)肉だけを扱う彼女の肉を使いたかったんですが、『ル ジャングレ』は鹿メインなんで、なかなか扱えなかったんです。でも、彼女と何度か話している内に、レストラン中心だと、ヒレやサーロイン、肩ロースみたいなステーキやロースト用の肉ばかり出て、バラ肉やホルモン、内臓系が売りにくいと聞いたんです。試しに内臓を取ってみたら、めちゃくちゃうまい。でも、レストランだと煮込みにするとかしかないから、時間がかかってしまうんです。今、働き方改革で長時間労働はまずい、焼肉だ!って思いました。焼いちゃえば、何でもおいしいし、肉本来の味が楽しめる」

荻澤さんの素晴らしい肉を、色んな部位をバランスよく、定期的に発注するには焼肉屋は最良のアイデアだった。さらに、そこで自然派ワインを出せば、ワインと牛、双方の生産者たちに恩返しできるかもしれない。

「彼女に話すと、もしバランスよく(定期的に)肉が出るなら、他の肥育農家さんたちもやりたい人は多いって言うんです。売り手が決まっていないのに育てるのは物凄いリスクなんで、ある程度、大量に消費できるようになって、お客さんもそのおいしさを知ってくれれば、これから先、(部分買いじゃなくて)内臓ごと一頭買いもできて、業界全体にとってもエールになる」

かくして、誰もが明日に向かって二の足を踏んでいる最中、有澤シェフは新店『さぶちゃん』をオープンさせる。

クレームブリュレの約束

焼肉店を計画してから、店として面白そうな案件もいくつか見つかった。でも、まだ先が見えない時期にスケルトン物件はリスクが大きい。そんな中、幡ヶ谷に焼肉屋の居抜き案件が見つかる。

だったら、ほぼ店をそのまま使ってソフトランディングしよう。とにかくスタートして、少しずつアクセルを踏み込んでいけばいい。

今できる事を、なるべくコストを抑えてスタートする。止まらず動く、動きながら考える。動きながら見えて来たことに柔軟に向き合う。それは、いつも走り続けてきた有澤シェフならではの新しい店作りの方法だった。

地元で愛されていた焼肉屋を2020年6月1日に引き渡され、2日間で看板を換えて、掃除。そして、6月4日には開店。今回の改装を手掛けた、都内の人気飲食店の多くをデザインする設計屋(自称)の矢野(寛明)氏曰く「自分史上、明け渡しから開店迄最短記録」。

何から何まで前代未聞のスタートだったが、店の前に立つ有澤シェフには、もはやホルモン屋の親父としての風格が漂っている。

それは、大変な季節の中、いつも胸を張って、大好きだったおばあちゃんとの約束を果たした有澤少年の喜びの証(あかし)なのかもしれない。

「胸いっぱいの楽しみと喜びは、いつでも哀しみと争いを打ち消してくれる。
だから、いつでも銀色の裏地を探して、人生の明るい面を見つけてごらん♫」

ホルモンを焼く煙の向こうに、いつまでも『Look For The Silver Lining』のメロディーが響いていた。

焼肉 ホルモン さぶちゃん

住所
東京都渋谷区幡ヶ谷1-33-1 1F
電話番号
03-6407-9833
営業時間
平日17:00〜23:00(L.O.)、土日祝15:00〜23:00(L.O.)
定休日:無休

※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
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