幸食のすゝめ#014、開かれた書架には幸いが住む、新宿ゴールデン街。
「明日の朝、成田からテキサスに行くんだけど、何冊か本、借りてっていい?」。
代理店のディレクターが、ノートブックを閉じながら、背後に広がる膨大な本の海に視線を向ける。長い身体を折るようにしてカウンターから抜け出すと、店主のカイくん(田中開さん)は文庫本が並ぶコーナーから何冊かを選び出す。「機内に持ち込む荷物だから、文庫本化されてるものがいいですよね」。
彼の祖父、田中小実昌の代表作のひとつ『アメン父』と軽いエッセイ集。もう1冊、おじいさんの親友だった殿山泰司の『日本女地図』。
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田中小実昌や殿山泰司、そして色川武大は、かつて新宿ゴールデン街に通う多くの酔っぱらいたちの憧れだった。
あんな風に歳を重ねて、あんな風にへべれけになって、破天荒なのにキュートで、どこか毅然としていられたら…。
あんな風に街に、人に、女たちに愛されたら…。
特にコミさんこと小実昌さんは、ゴールデン街のアイコンだった。
彼の孫が「祖父が居た街・ゴールデン街」でレモンサワー屋を始めるという、祖父の蔵書をすべて並べるという。最近、ご無沙汰だったゴールデン街に、雨の中を駆けた。
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明治通りの正門から花園神社を抜けると、いちばん奥の通りになるゴールデン街の五番街。
入口から程なくして、重厚な廃材のドアが見える。もしかしたら「本邦初レモンサワー専門店」という少し古風なメモが立てかけられているかもしれない。茶室のにじり口のような入口を、背を屈めながら潜ると、建物全体が吹き抜けの書架になっている。
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にじり口で侍が刀を抜いたように、僕らは街のしきたりや既成概念、つまらないしがらみから解かれて、「一杯と一冊」の知の胎内に抱かれ、日本一のレモンサワーに出逢う。
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眼を奪われるのは、膨大な本ばかりではない。カウンターにそびえ立つレモン色の2本のタワー、ランドルフィルターの存在だ。このフィルターは、本来クラフトビールなどで使われるホップフィルターで、ホップ風味を倍増させたり、果物をフィルターに詰め果実風味を付けるのに使われる。ここでは、予めレモンピールで香り付けした美味しいレモン焼酎に、さらにレモンのフィルターをかけ、特製のシロップを合わせて強炭酸で満たす。
その味わいは豊穣にして清涼で、まるでレモンを丸ごと摂取しているような至福に包まれる。通常の甲類ではなく、選び抜かれた黒糖焼酎が使われていることで、まろやかな風味も増している。
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日本の文脈の中に生きる大衆の味の進化系を
レモンサワーのアテには、カレートーストが用意されている。街の喫茶店で、昔から定番で出されているようなピザトースト。そこにキーマカレーの刺激を加え、レモンサワー屋にぴったりのメニューが生まれた。進化したレモンサワーとピザトースト。
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勝負するなら奇を衒ったものではなく、日本の文脈の中にごく普通にあるものにしたかった。
でも「いちいち」どこかが違う。
でも「いちいち」どこか洒落ている。
そのコンセプトは、この店のもう1人の人物、カンさん(森枝幹さん=写真家・ジャーナリストの森枝卓士氏のご子息)の独壇場だ。代沢の『サーモン&トラウト』で日夜舌の越えた食通たちを唸らせる彼と、カイくんの出会いがTHE OPEN BOOKを生んだ。
言葉の海に泳ぎ出すためのレモンサワー屋
素材との出逢いから料理を組み立てるカンさんらしく、吟味されたヴァン・ナチュールや北海道から届くチーズも用意されている。2階には小さな四畳半の個室もあり、文化とエロスがいつも交錯していたゴールデン街の正当な空気を継承している。
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個室のベランダからは街の喧噪も手に取るようだ。クリック1つでどこまでも世界が広がると信じていた若者たちが、いつのまにか友だち同士のSNSの中だけで生きている。「だから、先人たちが紡いできた豊穣な言葉の海、重厚な本の世界に触れる入口になれたらと思っています」。
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懐かしい図書カードを記入しながら、コミさんの孫、カイくんが澄んだ瞳をいっそう輝かせる。本に出逢うきっかけを与える、街のレモンサワー屋さん。膨大な本の森の中で、とびきりのサワーに酔い痴れたい。開かれた書架には、幸いが住んでいる。
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<メニュー>
レモンサワー700円、グラスワイン600円〜、カレートースト700円 、チーズ1種600円〜(盛り合せ1,500円)、ボトルワイン6,000円
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。
※森一起さんのスペシャルな記事『幸食秘宝館・武蔵小山、グルメランキング上位には載らないホントウの名店3軒を巡る』はこちら
The OPEN BOOK
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- 定休日
- 定休日 無休
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