幸食のすゝめ#015、青い背には幸いが住む、有楽町。
「8時の回の者です、冷蔵庫借ります!」。入店の30分前、ギャバジンのコートを着た近所のオフィスレディが純米大吟醸の四号瓶を2本持ってくる。着席したら、ちょうど飲み頃になる計算だろうか。本日用意された淡路島の真鯖とのペアリングは、きっと彼女に極上の笑顔をプレゼントするだろう。カウンターでは、大将と息子さんがてきぱきと刺し身や鮨、小鉢などを用意している。奥の小さな厨房では、お姉さんが西京焼や鰹の叩きなどに火を入れる。
焼鳥屋の煙が立ちこめる有楽町のガード下に、今日も大前一家の極上のホスピタリティが待っている。
「お客さんの喜ぶ顔が見える距離、1人で目が届くカウンターだけの商売がいちばんいい」。長めの銀髪を後ろで束ねた大将(大前守さん)が、優しく色っぽい笑顔を見せる。青山で大きな店を開いていた鮨屋の三代目、全盛時には全国から集まった弟子たちが30人以上働いていたと言う。しかし、土地が高騰したバブル時、相続トラブルの中で閉店。善良な市民たちが貧乏くじを引く時代だった。心機一転を期した日々の中、人づてに今の物件に出会う。「有楽町のガード下なんて、ほんと宝くじに当たった気分でしたネ」。『鮨大前』のはじまりである。
やがて、大学卒業後カメラマンになっていた息子(欽尉さん)も合流。トロ箱を積み上げたチェーン系海鮮居酒屋や、マグロを売り物にする大手の鮨屋が立ち並ぶ中で、小さな鮨屋の可能性を模索する。「だったら、鯖を極めようと思ったんです。もともと鯖の仕込みが上手かった大将に倣いながら、僕がさらに特化しました。鯖は全国で獲れる魚なんで、1年を通して脂が乗った旨い鯖を用意することができます」。豊後水道、瀬戸内の淡路島、神奈川の松輪、五島列島、宮城、青森、静岡と、『鮨大前』に行けば、その時期いちばん旨い産地の鯖にベストな状態で逢うことができる。しかも、合わせる酒には、一切持込料を取らない。
まず供される刺し身の盛り合せには、その日の築地市場でベスト2の鯖が厚切りで盛られる。共にほとんど刺し身に近い軽い〆方だが、1つは塩と昆布のみで〆、酢を使わないことで鯖本来の重厚な脂の旨みを活かす。ガリと合わせたり、山葵と柚子胡椒のダブル使いなど、産地の説明と共に美味しい食べ方もレクチャーされる。脇を固めるのは、甘海老、帆立、シマアジなど、そして、この店唯一のマグロである脳天のスライスが添えられる。マグロ天下の東京で堂々と鯖が主役を張れるのは、親子の目利きと腕あってのこと。ここ『鮨大前』だけで出逢える贅沢だ。
L字カウンターで身を委ねる青いコースの至福
その後、その場でペーストにした新鮮な肝に紫を垂らして食するカワハギ刺し、鰹の叩きなどを挟みながら焼き物の時間へ。希望すれば鯨刺しや、立派な生牡蠣も用意される。
滋味あふれる鯖の西京焼のほか、焼き物もハタハタや立派な本柳葉魚も選べる。
鮨大前では基本はおまかせのコースのみ、刺し盛りに始まり、握りに終わるコースの流れを、お腹の減り具合と時間に応じてアレンジしていく。
でも、案ずることはない、顔が見えるL字カウンターならではの親近感で、「も少し食べる?」と大将が気軽に声を掛けてくれる。新しい酒を開けると、扉の向うからお姉さんの京子さんがグラスを手渡してくれる。
幸いが生まれるガード下の小さなパラダイス
〆の握りも、鯵、鰯、サヨリ、鯖、小肌と背の青い魚の揃い踏み。
最後には、海老のだしが染み渡る味噌汁が供される。
有楽町のガード下、職業も、服装も、時には国籍さえも違うお客たちが身を寄せ合い、小さな家族の如く幸せな時を過ごす。旨い鯖という共通言語で結ばれた客同士が持込の酒を分け合うこともあれば、ここからいくつものロマンスさえ生まれた。
カウンターで親子の鯖劇場が続く中、通路のない店を出てガード下を駆け足しながらお姉さんはホール業務の一切をこなす。ここは鮨屋というより、背の青い魚のフルコースと選び抜いた酒のマリアージュに酔う、どこにもない温かい空間だ。青い背には、幸いが住んでいる。
<メニュー>
おまかせ7,000円~、酒類の持込料は無料
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。
※森一起さんのスペシャルな記事『幸食秘宝館・武蔵小山、グルメランキング上位には載らないホントウの名店3軒を巡る』はこちら
鮨大前(スシダイゼン)
- 電話番号
- 03-3581-6641
- 営業時間
- 17:30~23:00
- 定休日
- 定休日 土日祝、築地市場休市日
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。