着込んだシャツのようなトラットリア
何年前のことだろう。
初めて来たとき、この店の名は『ファビアーノ』だった。
大井町という、私にとっては競馬場しか思い出せない駅にあるカラブリア州の料理店。
1997年の開店と訊いたときは、え、まだ20年? と疑ってしまったほどの侘び寂び感。古いロードムービーに出てきそうな、少しくたっとした、イタリアの郊外ならどこにでもありそうなトラットリア。
いや、ないか。
店主が壁にも天井にも子どもみたいに落書きしてしまった、こんなヴィヴィッドな店なんて。
スナック的な馴染みの雰囲気を醸す夫婦がいる。
肉料理をお代わりするカップルがいる。
みんな、まことに自由。
肌と同化するくらい着込んだネルのシャツみたいに、この街の人はトラットリアを使いこなしている。
日本のイタリアン黎明期からの料理人
オーナーの吉田政國さんは、イタリア飲食業界人なら誰もがお世話になっている『イタリア料理用語辞典』の著者だ。
でも、優等生じゃない。
終戦の年に生まれて、職業軍人の家に育ったけれど、演歌歌手に憧れた。
キャバレーやクラブで「ちょろっと歌いながら」バーテンダー。戦後のキャバレーはコックがいた時代で、吉田さんはいつの間にか料理が気になっていた。
21歳から料理人の修業を始め、フランス料理店のシェフも務めたし、外食企業ではメニュー開発も手がけている。
そうして1974年。
『シシリア』や『キャンティ』はあったけど『カピトリーノ』はなかった年、会社が渋谷のホテルに店を出して異動。それが、イタリア人シェフ、ファビアーノ・ビンツェンツォさんのいるイタリア料理店だった。
ファビアーノさんはローマっ子、その奥さんがカラブリア州出身。
イタリアをブーツの形で例えればつま先にあって、そして唐辛子をよく使う。
しらすにも唐辛子、アンチョビにも唐辛子、豚肉にも唐辛子を入れて発酵させる調味料。セミドライトマトなど野菜のオリーブオイル漬けはイタリア各地にあるけれど、この州ではやっぱり唐辛子が入る。
昔から防腐剤代わりだったそうだが、あまり辛くないのとかうまみがあるのとか、カラブリアの人は数種類を使い分け、食べ分ける。
▲自家製パンチェッタとカラブリアのペンネ
吉田さん曰く、日本におけるイタリアン黎明期のメニューは、多くがカラブリア料理がベースだという。
「ミートソース、ペペロンチーノ、ラザーニャ、マカロニ。イタリア各地にもある料理だけど、それらが日本に渡ってきたときの味はカラブリア風。なぜって? イタリアでも南の貧しい州、カラブリア人、シチリア人が移民となって世界へ散ったからです」
なるほど、日本のイタリアンは当時アメリカから入ってきた。ゆえに、元を辿れば……である。
▲匠の大山鶏とカラブリア特産ポテトと赤玉葱のロースト
「このピザを作る人になる」と決めた女の子
吉田さんはその後、ホテル「サンルート東京」のイタリアンでシェフを務めた後、師匠の名をもらって1997年に『ファビアーノ』を開店した。
現在のシェフ、有水かおりさんは開店2年目に呼び寄せた、「サンルート東京」時代の元部下だ。
有水さんは、面接で吉田さんに言われた言葉を今も憶えている。
「男でも女でも、差別も贔屓もしない。勉強しないならおいていくよ」
イタリアンで、女性で、厨房希望と言うと面接さえしてもらえない日々で、ずっと待っていた言葉だった。
イタリア一筋、というより、『ジロー』のミックスピザ一筋だった。
小学生のときに母と一緒に食べて以来、料理人になる、というより「このピザを作る人になる」と決めた。
で、高校生になって本当にこの店へ履歴書を持ってきた女の子である。
それから「イタリア料理」というものを知って調理師学校に進み、都内で数軒、イタリアではパルマとリグーリアで計半年修業。
「でも現地で、どの地方の料理をやりたいの? と訊かれてうろたえたんです。イタリアが地方料理の集合体だと頭では知っていても、やっぱりわかっていなかった。でも、行ってみれば本当にパルマは肉ばかりだし、リグーリアは魚ばかりだし。自分が何を勉強したいのか、明確にしなければと」
きちんと決めて、もう一度イタリアへ行こう。
と思っていた矢先、『ファビアーノ』で孤軍奮闘していた師匠・吉田さんから「助けて」コールを受けたのだった。
自家製で作り上げる、現地感のある料理
だから有水さんにとってこの店は、イタリア修業だ。
ファビアーノの料理を吉田さんに教えてもらい、イタリア現地の料理本を取り寄せ、ビスコッティ一つでもイタリア人に食べてもらって確認する。そうして一個ずつ覚えていった経験の積み重ね。
▲(左)本日の前菜盛り合せ
しかも加工肉も調味料も、何から何まで手作りである。
「ンドゥイアのフジッリ」に使うカラブリアの調味料「ンドゥイア」も、豚のいろんな部位を塩とカラブリアの唐辛子で発酵させる自家製。ただ、辛味は現地よりやや抑え、粉の味が引き立つようにしている。
▲ンドゥイアのフジッリ
辛いものが苦手な私はさらにマイルドにしてもらったが、辛味よりうまみを感じてちょうどよかった。
パンチェッタは吉田さんが冬に1年分を仕込み、軒下に吊るして熟成させる。
マグロのツナは香味野菜と2時間茹で、天地を換えて1日置く。
煮汁に出たうまみを戻してやるためだ。
どこかマンマ的な、こういう仕事を彼らは20年続けてきた。
2013年、ファビアーノさんが亡くなったのを機に、店の名は『トラットリア ヨシダ』になった。
でも、変わったのは名前だけで、有水さんが料理を作り、吉田さんが店の顔としてフロアに立ち、サービスの竹野将生さんがお客を笑わせながらテーブルを行き交う光景は変わらない。
後日談がある。
有水さんの人生を決定づけた『ジロー』のミックスピザ。
実は、ファビアーノさんと吉田さんがレシピ開発を手がけたものだった。
という事実は「サンルート東京」時代、たまたま社員食堂で吉田さんと同席したときの世間話から発覚したのだそうだ。
あの頃からすでに導かれていたのか。
強い強い、縁のある師弟である。
〈メニュー〉
ランチ 1,000円〜。ディナーはコース 5,000円。
アラカルトは前菜 1,280円〜、プリモピアット 1,480円〜、セコンドピアット 1,880円〜。
ワインはグラス 880円〜、ボトル 3,980円〜。
食後酒 600円〜。すべて税別、コペルト 500円、サービス料なし。
本日の前菜盛り合せ 1,680円(2人前)
ンドゥイアのフジッリ 1,480円
自家製パンチェッタとカラブリアのペンネ 1,480円
匠の大山鶏とカラブリア特産ポテトと赤玉葱のロースト 1,880円
※要予約/50席
JR・東急「大井町駅」より徒歩3分
トラットリア ヨシダ
- 電話番号
- 03-3777-8646
- 営業時間
- 月~金 ランチ:11:30~14:30(L.O.13:30) 、土・祝日 ランチ:11:30~14:30(L.O.14:00)、 月~土 ディナー:18:00~22:30(L.O.21:30)
- 定休日
- 定休日 日曜
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