幸食のすゝめ#052、垣根を越える自由には、幸いが住む、新橋。
「いらっしゃいませ!今日のお通しです」、居酒屋らしいてきぱきとした態度でスタッフがテーブルに小さなコップを運んだ瞬間、テーブルに座った客たちから軽いざわめきが起こる。
「わーっ、きれい」、という女性たち。「何飲んでいいか分からない」と困り始める男性陣。運ばれて来たお通しは、シロイカと透き通ったジュレ、野菜のムースなどが層になっている。
お通しというよりアミューズブーシュ、フランス料理の口開けだ。
フランスの一流店で修業したオトコ
この居酒屋の店主である中安工さんは、調理師学校を卒業した後、ほぼ日本での修業を経ないでフランスへ。リヨンのミシュラン一つ星から始めて、途中、何度か帰国し、神奈川のホテルや、東京のブラッスリーに勤務する。
ブラッスリー時代、オーナーとシェフがフランス人だった縁で、再び渡仏。最終的には、ブルゴーニュの三つ星店の厨房に立つ。そんな中、日本での高級フレンチ設立にシェフとして迎えられるが、その店は1年を待たずに閉店。その後フランス料理の世界から足を遠ざけ、自分の料理を模索する。
自由でアナーキーな居酒屋を作る
再生のヒントは田町の街を歩いている時、偶然見つけた居酒屋だった。10坪くらいしかない店内からは人が溢れ、ビールケースを並べて板を渡した簡易席に、たくさんの人が群がっていた。しかも、メインは中華ベース。炒飯や餃子まであるが、焼鳥はきちんと押さえている。その時、フランス料理という世界に囚われ過ぎていた自分が小さく思えて来た。
「そうだ!居酒屋なら、何を出してもいい。ハイボールやホッピーを飲んでいる人の横で、ナチュラルワインを飲んでいる人がいる。それって、なんか楽しい。居酒屋なんやから、何でもいいやん!」。
それは限りなく、自由でアナーキーな居酒屋構想だった。新橋の小さな奇跡の物語の始まりだ。
予約の取れない居酒屋へ
しかし、工事の着工中に3.11が起き、街には自粛ムードが満ち溢れていた。幸い、お客が0の日はなかったが店は苦戦を強いられる。そんな中、俺のフレンチ系のヒットで、気軽にワインやフランス料理を楽しむ層が新橋でも急増。
最初は「パテって何?」と聞いていた客たちが、同僚やクライアント、彼女とリピートするようになった。
「なんかあそこ変わってる、何から何まであるけど、どれもいちいち美味しい」。
自然に浸透していった街の口コミで、予約が取れない店に変容する。
串からフレンチまで、どれもが懐に優しいプライス
「時代が変わっても廃れないもの、みんなが食べてくれるものを何か入れる、それがまず大切。だから、(焼鳥と焼トンの)串と刺身だけは絶対に手を抜きません。毎日、仕込みの9割は串打ちに当ててるし、築地から仕入れる魚も銀座の高級寿司屋と同じ仲卸から入れる。その2つを基盤にして、自分がやりたいフランス料理的なものを、自分で食べたら、これはないやろ!?という価格で出す」。
圧倒的な品ぞろえのナチュラルワイン
もちろん、すべてのメニューは相殺され、どれもが客に優しい驚きのプライスで供される。
それは常時かなりの種類が用意されている、ナチュラルワインの手書きリストにも反映される。ルーシー・マルゴーも、ラ・ソルガも、ハーミットラム…。タクミさんが、始めてナチュラルワインに惹かれたヤウマの「無理しないで」も、同じく5,000円代で提供されていた。
あらゆるエッセンスが出逢う、自由なメニューたち
つぶ貝のエスカルゴバター焼きも、トリッパと牛スジのオーブン焼きも、豚足バクダンも、すべてタクミさんの創意と才気に溢れている。豚のソテーを頼んだら、アサリのジュースを従えたジャガイモのピュレの上に豚肉とアサリが載り、ヘーゼルナッツオイルとレモンで満たされていた。もちろん、ポテトサラダや、もやしナムルもしっかりと美味しい。あらゆるボーダーを超越した垣根なき料理、居酒屋だからこそ出逢える最上級の自由には、タクミさんが歩いて来たいくつもの人生の局面がすべてプラスに転化している。フランス料理と、居酒屋の自由さ、素晴らしい和食の素材。垣根を越える自由には、幸いが住んでいる。
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