幸食のすゝめ#054、醸された時には幸いが住む、目黒
「今年中に、この店の隣に2人で店をオープンさせます」。
その夜、目黒・元競馬場前『メグロ・アンジュール』(当時の店名は『ル・ヴェール・ヴォレ・ア・トウキョウ』)のカウンターで飲んでいた大人たちが、一斉に若い2人のそばに集り祝杯を上げた。
(安田)翔平くんと(江本)賢太郎くん、デンマーク帰りとオーストラリア帰りの2人。そして、当時『noma』のソムリエだった兼子(享康)くんを加えたトリオは、去年から今年にかけて東京の食に関わる人間たちの星だった。まっすぐな視線と人なつこさ、溢れる程の情熱。積極的に開催されるポップアップイベントで彼らに出会う度に、誰もが食の明るい未来について思いを馳せた。何かが変わって行きそうな空気が、いつも彼らの周りに満ち溢れていたからだ。
その内の2人が、とうとう一緒に店を造る。しかも、翔平くんの奥さん、あのKIRIKO(中村樹里子)さんがデザートを作るらしい。
噂は千里を駆け、レセプションが行われた11月23日、彼らのレストランは東京中の飲食関係者や感度の高い若者たちでごった返した。芳名帳代わりの大学ノートには300人近い名前が書かれ、混雑で記名をやめた後も200人近い人が集った。その顔ぶれを見ているだけでも、2人への並々ならない期待度が感じられた。
大阪の料理学校を出た翔平くんは、卒業後、フランス、大阪、東京のフレンチレストランで働いた後、ワーキングホリデーのビザを持ってデンマークに飛んだ。『ミシュランガイド東京 2014』にて世界最速で一つ星に輝いたフランス料理・白金台『Tirpse(ティルプス)』の厨房で『Kadeau』の話を聞き、居ても立ってもいられなくなったからだ。
もちろん、『noma』をはじめとしたデンマーク中のレストランを食べ歩いた。でも、その中で『Kadeau』だけは次元が違った。料理を口に含んだ瞬間、身体中に衝撃が走る。初めて食べる料理なのに、身体中にスッと馴染んで行くような感覚。
その足で厨房に飛び込み、弟子入りを志願。もちろん、即答で断られたが1カ月通い詰めて、シェフの座を手に入れた。
一方の賢太郎くんは大阪の料理学校を卒業後、フランスや東京の名店で学んだ後、カリフォルニアに留学。その後、オーストラリアでワイン醸造を経験し、メルボルン『NORA』でヘッドソムリエを務めて帰国する。
『Kadeau』は、バルト海の宝石と称えられるボーンホルム島でスタート。島で収穫したオーガニック食材を、発酵や塩漬けにして保存し提供する。だから、コペンハーゲンの旗艦店でも、一年中ボーンホルム島の食材を味わえる。夏が短く、冬が長く厳しい北欧ならではの保存技術。
しかし、翔平くんはデンマーク料理の定番の1つピクルスは、日本でいう漬物だと直感する。もともと味噌や醤油など、自分は発酵文化の中で育ってきたはずだ。
しかも、デンマーク料理界の発酵ブームに火をつけたのは、『noma』のオーナーシェフが日本から持ち帰って発展させたバッタ味噌だった。塩を使わずにうまみを出すために、麹を使い、レモンバーベナとバッタを発酵させたエキスを使った醤油のような調味料だ。
和の素材と世界的な視野の出逢い
「お新香のサラダです」、髪を切った翔平くんがキラキラ光るソースに浸された皿をサーブする。
薄くスライスして円筒状に巻いた大根の糠漬けの下には、カブのピクルスが千切りにされて隠れている、千枚漬けだ。ソースは塩を加え、常温で乳酸発酵させたトマトジュース。キラキラの正体は、実家で収穫したイチジクの葉っぱのオイルらしい。散らされた菜の花も、ピクルス状になっている。
自在な発想で賢太郎くんがペアリングする酒は、ワインでも日本酒でもなく、生キュウリのジュースとハーブのボタニカルウォーターを使ったジントニック。お新香のもう1つの花形、キュウリがこのサラダに合わない訳はない。
本来、食事の添え物でしかなかったお新香を、斬新なひと皿に変える大胆なクリエイティビティ。それでいて、口に含むと、奇を衒った味覚など一切感じさせない繊細な味覚のセンス。お新香のサラダの向うに、食の未来が覗いているような気がした。
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