幸食のすゝめ#064、重ねる手間には幸いが住む、六本木
「貝は鳥貝か、赤貝。鳥貝は、軽く湯に潜らせてます」
「じゃ、鳥貝を」
大将に注文すると、隣りの恭子さんからも「鳥貝!」の声がかかる。
「はい、鳥貝2つね。鳥貝ヤマでーす」
大将が良く通る声で厨房に伝える。
「え、じゃ私も、鳥貝!」
すかさずカップルの女性からコールが入る。常連さんだろうか、見事な突っ込みだ。
絶えまないトークのシャワー、大将・尾崎淳さんが醸し出すウィットとユーモアに満ちた世界観の中で、集った観客もいつか尾崎劇場の一員になっている。
それでいて、丁寧な仕事が施された江戸前の鮨や、創意溢れた肴が次々とリズミカルにサーブされる。
こんな鮨屋、実は今まで出会ったことがなかった。
鮨屋の親方にとって、寡黙さと丁寧さは、いつか切り離し難いセットになっている。
「嶺岡豆腐です」、コースは瀟洒(しょうしゃ)な小皿に盛られた小さな豆腐から始まった。口に含むと、牛乳と生クリームの香りの中でトウモロコシの自然な甘さが際立っている。
南房総の嶺岡は酪農の発祥地、軍馬改良のために数頭の馬と共にインドから輸入された白牛3頭が育てられていた。
江戸幕府8代将軍だった徳川吉宗が視察に来た時、「豆腐が食べたい」というリクエストにこたえて、手に入る牛乳と葛を使って作られた当意即妙のメニューが嶺岡豆腐だ。
ここでは、そこにトウモロコシ豆腐の味わいも加えられている。通常は黒蜜をかけるが、山葵を添え、爽やかなコースの前奏曲になっている。
続いては能登のもずく、歯ごたえが嬉しい肉厚のわかめが出され、煎り酒で満たされた目抜(メヌケ)のお造りへ。
先ほどのわかめを、3日間かけて作られたという煎り酒に浸すと、再び立派な一品に変容する。
山の幸と海の幸、海藻の深い余韻の中で、蕩けるような銀ダラの西京漬が、つまみとして考え抜かれたサイズで登場。
思わず頬を綻ばせていると、ほぐした北海道噴火湾産の毛がにの握りがやって来る。
掌に海苔を載せられ、そっと置かれた小ぶりの握りを自分で挟んで食べる至福。海苔は「こんとび」、大自然の中で青海苔が混入した幻の海苔だ。
昔日には、混(こん)や飛(とび)は混ざり物として軽視されたが、近年は昔ながらの海苔の味を伝えるものとして珍重されている。しかも、ここで使われているのは、しっかりとした甘みとほろ苦さが堪らない九州有明海産だ。
続いて、千葉勝浦の初鰹が二切れ。それぞれに生七味と當り葱(あたりねぎ)が添えられている。意外にエスニックな生七味の味わいもさることながら、ニラやニンニクの香気さえ漂う當り葱と漬け鰹のマリアージュに感嘆する。
この薬味、下北沢の『小笹寿し』辺りでしかお見かけしたことがない。先達の技を柔軟に咀嚼して自分の技の肥やしとする、その姿勢にも素直に賛成の挙手をしたい。
30分以上かけて當られた葱は、香りが抜けないよう、その日の内に消費すると言う。
鰹の余韻覚めやらぬままに、稚鮎の天ぷら。
続いては、プリン巻きだ。柔らかく煮て裏ごしした鮟肝を、あらかじめ鮨飯と混ぜ合わせ、手巻きにして掌に直に渡される。
ネーミング通り、痛風の恐怖なんて吹き飛ばすうまさの結合体だ。口休めで添えられる、結実したばかりの西瓜の奈良漬け、薄切りではなくブツ切りにしたガリもいいアクセントになっている。
そして、いよいよ、握りの時間だ。
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