連載8回:「和菓子(あんこ)の由来」について【日本料理研究家/近茶流嗣家・柳原尚之】
6月16日は「和菓子の日」ということをご存知だろうか。嘉祥元年(848年)6月16日、仁明天皇が16個のお菓子などをお供えして、病気がなくなり、健康で幸せに暮らせるように祈ったという由来から、江戸城に大名や旗本が登城し、将軍から菓子を賜る「嘉祥の儀(かじょうのぎ)」という儀式が生まれた。江戸時代まで、この日に和菓子を食べるという習慣が続いたことから、昭和54年(1979年)に全国和菓子協会が定めた。
連載8回目では、この「和菓子の日」にちなんで、江戸懐石近茶流嗣家(きんさりゅうしか)の柳原尚之さんに、さまざまな角度から、和菓子の代表である「あんこ」について解説していただいた。
日本人はなぜ「あんこ」を愛するのか? その由来は太陽信仰?
和菓子に欠かせないのが小豆で作った「あんこ(あん)」です。あんこはいろいろな種類の豆で作られますが、今回はもっとも馴染みの深い「小豆あん」についてお話したいと思います。
小豆は、日本がとても大事にしてきた食文化の一つです。小豆が日本に伝わったのは縄文時代といわれ、日本全国で栽培されました。私の父も軽井沢で小豆を育てていますが、黄色い可憐な花が咲きます。
小豆は赤い色をしていることから、太陽信仰につながり、お供えとして使う「五穀」に用いられてきました。魔除けの意味もあり、おめでたい時に食べることから赤飯となり、それが「あん」になったのではないかと考えられています。
今や和菓子に欠かせない「あんこ」。日本人に愛されている理由はなぜでしょうか。
一つは、豆のもつ「旨み」に起因すると考えられます。和菓子と西洋菓子を比べると、西洋ではチョコレートやバター、バニラなどのように「香り」をおいしさとして好む傾向があるようです。
一方、日本人は「舌で感じるおいしさ」を好みます。小豆をはじめ、豆にはたんぱく質が含まれますから、旨み成分であるアミノ酸も多く含まれます。豆の旨みと砂糖の甘さとのバランスのよさが、旨みを大事にする日本人の好みに合っていたのかもしれません。
和菓子に欠かせない「小豆あん」の発祥はいつ?
では、和菓子の歴史をざっとおさらいしてみましょう。
古代の日本では、菓子は「果子」とも書き、もとは果物をさしました。7世紀、遣唐使の時代に、中国から「唐菓子(からくだもの・とうがし)」がもたらされ、平安期には宮中の宴会や神饌(しんせん)として作られていました。
その頃の唐菓子は米や麦の粉を練って油で揚げたものが中心で、索餅(さくべい)や餛飩(こんとん)など、今では麺類に属するものもありました。
また古代から江戸中期頃までの日本では、砂糖は輸入品で貴重なものでしたから、甘味料として、蔦の樹液を煮詰めた甘葛(あまずら)や干し柿などを加えて甘くしたようです。
今も残る唐菓子の一つに奈良の「ぶと」があります。奈良の春日大社に神饌として今も供えられますが、承平(931~938)年間成立の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、「米粉を蒸してついた餅を餃子のような形に成形し、油で揚げたもの」という記載があります。
「ぶと」は「ぶとまんじゅう」とも言われ、春日大社に供えられるだけでなく、周辺の店でお土産として売られ、参拝客が買って帰ったようです。また南北朝時代、京都・建仁寺の僧、林浄因(りんじょういん)というものが、中国の元から「饅頭」(マントウ)を持ち帰り、奈良で中身を豆にした饅頭屋を開いたことで人気が出てきたそうです。当時、その2つの「まんじゅう」があり、「まんじゅう」といえば奈良を指すほど有名なお菓子になりました。
甘い小豆あんの誕生時期は、実ははっきりとしていません。小豆あんは鎌倉時代に作られたようですが、甘くない塩あんでした。
甘いあんを使った和菓子が一般に浸透したのは、江戸時代に入ってからです。16世紀から17世紀にかけて、日本の商船隊が中国や東南アジアとの交易を行い、ポルトガルやオランダ、イギリスの商船が日本にやってきて貿易を行うようになると、砂糖の輸入量が増えます。このあたりから、あんこを入れて蒸したまんじゅうが作られるようになったようです。
砂糖はとても貴重品で、宮中や寺院がもっており、その権力を見せるひとつの方法としても使われました。東大寺には「結解料理(けっけりょうり)」といって甘いおはぎにさらに甘い砂糖をかけて食べる料理が残っています。
江戸時代中期以降、八代将軍徳川吉宗が国産の砂糖製造を奨励し、琉球や奄美大島などで砂糖の生産を推薦したことから、国産の砂糖の生産量が増え、料理や和菓子に使われるようになりました。
茶の湯文化とあいまって、和菓子は京都で進化をとげました。京都で発達した上菓子屋は、上層階級を顧客として、見た目にも美しく洗練され、高級感のある菓子を扱いました。「御用菓子屋」ともいいます。得意先は御所や公家、寺社など。江戸であれば幕府や武家、地方では藩主でした。店構えも大きく、「御用」や「京菓子」という言葉を使うことで菓子屋の格付けにもなりました。
その一方で、寺社の門前や宿場、名所の近くに店を構える菓子屋は、庶民相手に団子やまんじゅう、餅などの素朴な菓子を扱いました。上菓子屋に対して「餅菓子屋」と呼ばれました。江戸では浅草寺境内の浅草餅、目黒不動尊の粟餅などが有名でした。
ところで、京料理は砂糖をあまり使わない、甘くない料理が中心となりましたが、これは甘い和菓子が発展したことの影響なのかもしれません。一方、江戸では京都ほど和菓子が発展しなかった代わりに、甘みを上手に使う料理が多くあります。関西と関東では、甘みの使い方が違うんですね。
なお、私がひいきにしている和菓子屋は、上菓子でしたら赤坂の『塩野』や『とらや』、餅菓子屋でしたら『松月』です。『松月』は大福やどら焼き、柏餅などもとてもおいしいですね。
おいしさに感動! 近茶流直伝、絶品の「こしあん」の作り方
近茶流の料理教室でもあんこの作り方を一から教えています。最初は「こしあん」から勉強します。市販のあんこは水飴を加えたり、小豆でない豆を加えて着色したものもあるため、べたっとしたり、甘すぎたりする場合もありますが、手作りのあんこは本当においしいですよ。
絶品!「こしあん」の作り方
【材料:作りやすい分量】
・小豆 200g
・水 100cc
・砂糖 200g(できたら、ざらめ100g、上白糖100g)
・塩 少量
・ざる、茶漉しくらいの目の漉し器、袋ぬいにしたさらし
【作り方】
① 小豆はできるだけ新豆を用意する。水で洗い、ざるにあけて水切りをする。鍋に小豆を入れ、豆の3倍量の水(分量外)を入れて火にかける。
② 強めの中火で15分くらいゆでる。
③ ゆで汁が濃い小豆色になったらざるにあけてゆで汁を捨て、豆をざっと水洗いする。この工程を「渋きり(渋抜き)」という。
④ 再び鍋に③を入れ、3倍量の水を加え、火にかける。沸騰したら中火にし、途中アクをとりながら柔らかくなるまでゆでる。指で簡単につぶれるくらい柔らかくなったら、火を止める。新豆の場合は40分、ひね(それ以上時間の経った豆)の場合は1時間半が目安。柔らかくなるまでにかかる時間がまったく違うため、新豆と古い豆を混ぜて使わないこと。
⑤ 大きいボウルに目の粗いざるを重ね、水(分量外)を少しずつ加えながら④を流し入れて木ベラでつぶしながら漉す。ざるには皮だけが残る。
⑥ 目の細かい漉し器の下に別のボウルを置き、⑤を流し入れて木ベラで漉す。ここで白胚芽が取れ、なめらかになる。
⑦ ざるに袋状にしたさらしを入れ、⑥を少しずつ注ぐ。水気をしっかり絞る。この状態が生あん。
⑧ 鍋にざらめ(ない場合は上白糖の半量)を入れ、水を加えて中火にかけて溶かす。
⑨ ⑦の生あんを加えてなじませ、残りの砂糖を加え、強めの火で練る。焦がさないように強めの火で練り混ぜることでつやが出るので、火を弱めないこと。
⑩ つやが出たら火を弱め、塩を加え、木ベラで底が見える程度まで練り込む。好みの固さになったらできあがり。まな板やバットなどにいくつかの塊にすくって並べ、冷ます。表面積を広げることで、つやよく仕上がる。
つぶあんは手順④の段階から、砂糖を加えて煮て、つやが出たら塩を加え、練り上げたもの。豆の風味がより強く出るため、品質のよい豆を選ぶことが大切です。
小豆は大豆のように長時間水に浸ける必要がありませんし、コツを覚えれば簡単に作れます。夏場はかき氷、白玉団子に添えて「氷白玉」にしてみてはいかがでしょうか。ぜひ一度、できたてのあんのおいしさを味わってみてください。
▼参考文献
『柳原一成の和食指南』(NHK出版)
『美味しい暮らし季節の手仕事』(池田書店)
『和菓子ものがたり』(中山圭子著・新人物往来社)
『和菓子を愛した人たち』(虎屋文庫編著・山川出版社)
『日本食生活史』(渡辺実著・吉川弘文館)
※写真は一部イメージです
写真提供元:PIXTA(一部)
編集協力:糸田麻里子(フードライター/エディター)