幸食のすゝめ#068、見上げる空には幸いが住む、四谷三丁目
「森谷さん、今日は来れて嬉しかったです。すっかり遅くなっちゃったけど、なんだか大連時代を思い出しました」。
ショーウィンドウに並んだスイーツをお土産に、物静かな大人のカップルが帰り支度を始める。
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窓の下の新宿通りを行き交う車は、いつのまにかタクシーばかりになって来た。「空車」という赤いランプだけが、深夜の通りを支配している。バルバドスやハイチ、ベネズエラ、いろんな産地のラムやプロヴァンスのワインが並ぶカウンター。
シアサッカーのジャケットを羽織った彼から、群馬訛りのアクセントで「大連」という言葉を聞いた途端に、今この場所がいったいどこの交差点なのか分からなくなる。
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新宿通りと外苑東通りが交わる、四谷三丁目の交差点で空を見上げると、小さなバーの灯りが見える。
もしかしたら、赤い壁と、スポットライトに照らされたバーテンダーの姿も見えるかもしれない。
帝都に咲いた小さなオアシスだった、ユニークなサンドイッチのテイクアウト店が惜しまれつつ灯りを消して以来、多くの森谷ファンたちが待ち望んだ灯りだ。
故・松田優作が通い詰めた下北沢のバー『レディ・ジェーン』に始まり、新宿ゴールデン街の雇われマスター、政治家御用達の赤坂のクラブ、いつのまにか包丁を握らされていた麻布の割烹、中国初だった大連のイタリアンレストラン、渋谷のんべい横丁…。
やがて窮屈な横丁から飛び出し、ライブもできる大型店を出したが、駅前の再開発で立退きへ。アメリカンクラブの厨房で、膨大な料理の仕込みをしている中、2坪に満たない極小物件に遭遇。テイクアウトのサンドイッチ屋を開店する。
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オリジナルのサンドイッチばかりでなく、自家製のドルチェ類も評判だった店は、午後6時を過ぎると、華麗な夜のメタモルフォーゼを遂げた。
ショーケースを少しだけ外に出し、隅の棚をテーブルに変えると、テイクアウト店は角打店へと羽化。
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つまめるサンドイッチだけでなく、ミラノ風ポークカツレツなど、夜だけのヒット商品も多数生まれた。
前店からの客や、大連時代の常連、テイクアウト組から夜に仲間入りした新しいファン。小さな夢の楽園は、連夜、笑顔でぎゅうぎゅう詰めになっていた。
でも、森谷さんの心の中にはいつも、バーテンダーへの強い憧憬があった。再び本格的なバーを開く、店名に「テイクアウト店」と付けたのも、今は世を忍ぶ仮の姿だという思いがあったからだ。
仮住まいのはずが3年間も働きずくめだった前の店は、森谷さんのターニングポイントだった。
早朝から、自宅でサンドイッチの仕込みを続ける毎日、その姿を見ながら育った長男がある日尋ねた。
「お父さんの仕事ってなんなの?」
その時、背筋を伸ばして「君の父親の仕事はバーテンダーだよ」と言えない自分がいた。元々、シーザーサラダやハムエッグなど、バーテンダーが腕をふるうメニューはある。しかし、最後の渋谷の2店では気が付くといつも厨房にいた。自分の中で、もう嘘はつきたくなかった。
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本業を極めよう、そんな気持ちを抱いて、出発点だった下北沢の店の前に立った。大好きな街、神楽坂や荒木町で飲んだ。
そんな中、交差点のビルに「貸事務所」という貼紙を見つけた。
前職が酒屋さんだったこともあり、酒にシンパシーを持っていた大家さんはバー開業を応援。意外にあっけなく、引越先は決まった。
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店のコンセプトはもうはっきりしていた、酒はラムとワインにしよう。できるだけメニューは絞って、オーセンティックなバー営業を目指そう。でも、前店で培ったドルチェ類はつまみ用としても、テイクアウト用としても残そう。
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元来、バーのつまみには、チョコレートやレーズンバターなど甘美なものが多かった。
いちばんの売りは都市の交差点、バーテンダーのバックに広がる街の借景だ。だから、自分を照らすスポットライトも付けた。「何だろう?」と、少しずつ訪れる街の人たちも増えてきた。
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懐かしい造形と、いつも変わらないバーテンダー
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もちろん、やっと再開したオアシスを求めて、昔の客たちが交差点に輝く灯台を目指して集って来る。
前の店の照明とシンク、サンドイッチが入れられていたショーケース。
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前の前の店のピアノとカウンター上のグラスホルダー、JBLの筒型スピーカー、アンプは学生時代から使っているものだ。
店のすべては、森谷さんが旅の途上で愛してきたものたちばかり。だから、初めて訪れた場所じゃないように、誰もがデジャヴュな温もりに包まれる。
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そして、その真ん中には、いつも変わらない森谷さんがいる。誰もが待ち詫びていたバーの誕生だ。
最高のアテは、街と自分が通り過ぎたドラマ
時計が0時を過ぎる辺りから、交差点には様々な人間ドラマが展開する。
終電に急ぐ人、帰路を急ぐ女性たち、営業を終え客をタクシーまで送りに来た荒木町の着物姿のマダムたち、立ちん坊で客を引くガールズバーの女のコたち。そんな風景を見晴らしながら、南の島のラムを飲む、時々、自家製のスモークナッツをつまむ。街のドラマほど、酒にお似合いのアテはない。
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去年出て行った彼女のこと、頑張って希望の道を歩み始めた息子のこと、先日亡くなってしまった友のこと…。
いろんな自分の風景が、いつか街の風景と重なっていく。やっぱり、森谷さんが立つバーは、東京で最上の空間だ。
そんな温もりにあふれる店の名は…
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