幸食のすゝめ#078、食堂の豚には幸いが住む、蒲田
「私、まる特!定食のお味噌汁をとん汁にしてください」
3人連れの若い女性の1人が、とん汁を追加オーダーしたとたんに、
「私も、とん汁で!」と次々に横から声がかかる。
ここのとん汁は単品300円だが、定食なら+100円で味噌汁をとん汁に変えてくれる。具沢山で、通常でもかなりの量の豚肉が入っているここのお味噌汁、とん汁にして大丈夫だろうか。そう思いながら、豚の生姜焼をアテにサワーを飲んでいると、女性たちの丼と皿がどんどん空になっていく。
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こんな風景に出会えるから、いつでも町の定食屋さんに通いたくなる。
人が闊達(かったつ)にご飯を食べる様子ほど、幸福に満ちたものはないからだ。
昭和の日々、いつも外食のチャンピオンだったとんかつ。上野や浅草など下町の専門店で愛されたとんかつは、30年という歳月を経て日本を代表する大衆料理の華になった。
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フランスの郷土料理コートレットをアレンジした明治生まれの西洋料理が、いつかご飯に合う東京の郷土料理となり都内23区を越え、やがて全国に広まっていく。
しかし、僕が育った頃の九州の北部には、まだおいしいとんかつは見つからなかった。
だから、上京して上野でとんかつを食べた時、思わず豚の種類と産地を聞いてしまった。
まるで別の料理と感じる程に、東京のとんかつは完成され、豚肉の滋味に満ち溢れていたからだ。
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「九州、鹿児島の黒豚だよ」、驚愕の回答だった。
肉=牛肉だった西の人間たちには、豚料理を極めるという発想が薄かったのかもしれない。
東京のとんかつの新興勢力として、新たな激戦区である蒲田。『味のとんかつ 丸一』や『とんかつ檍(あおき)』などの人気店をはじめとして、さまざまなとんかつ専門店がしのぎを削っている。
そんな中で、ここは決してとんかつ専門店ではない、ごく普通の町の定食屋さんだ。
だから、いつ訪れたとしても長蛇の列に並ぶことはない。定食屋さんだから、価格は有名店の半額に近いほどリーズナブル。それでいて、味は多くのとんかつ専門店を軽くクリアしている。
ここは、いつのまにか高嶺の花になりつつあったとんかつ界の最後の砦、良心の塊みたいなオアシスだ。
定食屋さんだから、ハンバーグやカレーライス、ロース生姜焼などの定食も豊富。サバやサンマなどの焼魚も、皿をはみ出すボリュームで提供される。
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夜は自家製のポテトサラダをつまみながら酒を楽しみ、定食の単品で飲み進み、目玉焼カレーやかつカレーで〆る人たちも多い。それでも、有名店でとんかつ定食を一人分食べたくらいのお勘定だ。
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店を仕切る3人の女性たちのホールさばきもキビキビしていて、なんだか何倍もご飯がおいしくなってしまう。
司令塔は女将の丸山亜希子さん、厨房で腕をふるうシェフはご子息だろうか。
思えば、あの繁盛店『檍』の大将も丸山正一さんという名前だった。
極上のとんかつに出会える町の定食屋さん
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『檍』や『丸一』と同じ、安全でおいしい千葉産の銘柄豚「林SPF豚」を贅沢に使った、まる特ロースかつを頬張りながらサワーをもう一杯。
蒲田のとんかつを巡るミッシングリンクを考えながら、極上の素材を理想的な技術で調理した料理を楽しむ。
こんな定食屋、そうそう見つかるもんじゃない。
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揚げ時間と、パン粉と油のマジック。近年ポピュラーになった低温でじっくり揚げられた白いとんかつではなく、サクッと香ばしい衣の中から飛び出す甘くジューシーな脂身の妙は、高温に近い中温で揚げられた証しだ。
こんなとんかつが載ったかつカレーがおいしいのは当り前だし、生姜焼もそれまで培った価値観を覆すとてつもない一品だ。
定食屋という名の素晴らしき人間たちのドラマ
おなかを減らして来た学生たちや、晩酌兼用のサラリーマン、最近、巷に増大する肉女たち。噂を聞きつけて来た、味にうるさいグルメたちや有名店の料理人まで、いろんな人たちが一心不乱にとんかつや生姜焼を食べる姿は迫力を越えて美しい。
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その真ん中で、フランスのトリュフォー映画の女性たちのように、歩き、語り、手を動かすことをやめない3人のミューズたち。鍋を操り、林SPF豚の持つ素材の素晴らしさを最大限に引き出すシェフ。
豚肉料理を極めた町の定食屋さんは、とんかつ業界のヌーヴェルバーグだ。
本当は誰にも教えたくない究極の定食屋の名前は…
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