幸食のすゝめ#093、鉄板の周りには幸いが住む、武蔵小山。
「豚平焼とビールね、後で豚玉もらおうかな、そば入りで」、開店と同時に階段を昇って来た近所の女性が奥の席に座る。
予約が入っているのだろう、入口の方、火が点いてない鉄板には5人分の小皿と箸がセットされている。
「猛暑だから熱い鉄板の前に座りたくないんだって、広島だと直接鉄板から小さなコテで熱々のお好みを食べるのが普通なんだけどねぇ」、店主の泉暖代(いずみあつよ)さんが微笑みながら客の女性と話している。
でも、しっかりと手先だけはテキパキと動かして、鉄板の上で豚平焼が少しずつ形になって行く。
大きな鉄板付きのカウンターが伸びる店内は、暖代さんひとりのワンオペレーション。お好み焼きを焼き、ドリンクを作り、客と対話しながら、街を縦に貫く巨大アーケード、武蔵小山商店街パルムで2005年から15年間、店を続けてきた。
東京でも最も活気があるアーケードとして知られる武蔵小山商店街パルムは店の入れ替わりも激しく、舌が肥えた住民たちに受け入れられないと長続きしない。しかも、この街では味に加えてリーズナブルさが要求される。
そんな中、暖代さんの『海』が長い間愛されているのは、女性ならではのきめ細かな気遣いと本場仕込みの味だ。
広島市内で生まれた暖代さんは、18歳の時父親の仕事で上京。閑静な文京区白山で暮らすようになる。
やがて、ある日突然に父親が広島お好み焼き屋に転身、自分の身体の中に息づく広島人のDNAを信じてコテと鉄板の人生がスタートする。
親子共に飲食業の経験はなかったが、叔父や叔母が喫茶店や食堂、割烹などを経営していたせいで飲食に対する親近感はあった。
店は西新宿の成子商店街、夜営業の父を助けて、昼は暖代さんが鉄板の前に立った。お好み焼きはズブの素人だったが、そこは生っ粋の広島っ子、子どもの頃から近所には行きつけのお好み焼き屋さんがあったし、珍しく大阪系のお好み焼き屋もあったから、舌はしっかりとお好み焼きの味に精通していた。
コテと鉄板、もうひとつ広島お好み焼きに欠かせないものはソースだ。ちょうどその頃、口コミで東京でも話題になりつつあった「オタフクソース」が首都圏に進出。偶然にも、事務所が近所にオープンしたこともあり、「オタフクソース」社長も来店するようになり、2人の広島人には友情が生まれた。
出産し、ダブルワークしながらの子育ての日々。新しく始めた仕事場が恵比寿だったため、ほど近い目黒に引越。両方の通勤に便利な武蔵小山で見つかった物件で出店を決意した。
最初にこの商店街を訪れた時は、地面にそのまま鍋やヤカンを並べている金物屋さんや、量り売りしている佃煮屋、ゲームセンターなどが並ぶ風景に、少々驚きながらも庶民的な街並に惹かれた。暖代さんの『海』の始まりだ。
ヘルシーでおいしい女性ならではのお好み焼き
『海』に初めて入った客たちがびっくりするのは、お好み焼き屋や鉄板焼き屋特有の油の匂いがしないことだ。自らもスリムなスタイルをキープしている暖代さんが徹底してこだわったのは、余分な油を一切使わず、女性たちにも優しいお好み焼きを作ることだった。だから、毎日丁寧にメンテナンスされる鉄板には、一度薄くオリーブオイルを塗るだけ、調理中の油は使用しない。
ラードとソースが入り交じったお好み焼き屋独特の匂いに、食欲と郷愁を感じる男性たちも多いかもしれないが、もっと女性や子どもたちなど幅広い層の人たちに広島お好み焼きの魅力を知って欲しかった。
使っている材料にも、暖代さんならではのこだわりがある。
肉はスーパーではなく、知り合いのお肉屋さん。カナダ産麦仕立ての三元豚を使用、しつこくなく、それでいて滋味深いバラ肉は、お好み焼きに欠かせない立役者だ。
玉子も、毎朝養鶏場から届けられる『とよんちのたまご』の王卵を使用。味が濃厚で風味豊かな玉子は、玉子を上にトッピングした人気の「月のお好み焼き」を食べるとみんなコテを持つ手が止まらなくなる。
玉子との相性に驚く大量のネギトッピングは、伝統的な京野菜、九条ネギを使用している。
イカとエビ、タコが入るシーフードの「海スペシャル」。餅、広島ならではのイカ天、ネギたっぷりの「海のお好み焼き」。
チーズと餅が入る「波のお好み焼き」など、ここにしかないオリジナルメニューが選べるのも家族連れに評判だ。
「海デラックス」は豚骨ラーメン屋さんでの「全部入れ」。もちろん、そのすべてに、そばかうどんを選ぶことができる。
鉄板の上で完成された庶民たちの平和な風景
毎日、凛として鉄板の前に立ち、的確なコテさばきで次々とお好み焼きを焼いて行く暖代さん。彼女が繰り広げるライブアクトも『海』の大きな魅力のひとつだ。
元来、広島お好み焼きの店主は女性たちが多かった。女性たちの多くは、原爆を含む戦争未亡人たちで、そこいらにゴロゴロしていた鉄板と、進駐軍支給の安価なメリケン粉(小麦粉)を使って、それぞれの味を完成させた。
途中、高価なネギはキャベツに変わり、おなかを満たしボリュームアップするために中華麺が加えられて行く。
言わば広島お好み焼きは、外で食べる母さんの味、懸命に行きて来た庶民たち全員のお袋の味だ。
連日たくさんの人たちが行き交うアーケードの真ん中で、力強さと、優しさと、きめ細かなホスピタリティで焼かれる『海』のお好み焼きに触れるたびに、平和の意味について何度も考える。
お母さんとやって来た子どもが、ソースで口を茶色くして、豚玉を頬張っている。今日も『海』の鉄板の周りには、たくさんの笑顔がいっぱいだ。
鉄板の周りには、幸いが住んでいる。
【メニュー】
豚玉子 750円
豚玉子そば/うどん 900円
月のお好み焼き 1,100円
海スペシャル 1,350円
海のお好み焼き 1,350円
波のお好み焼き 1,350円
海デラックス 1,700円
ネギ焼き 550円
イカ天焼き 550円
豚平焼き 650円
豚キムチ 700円
焼きそば 750円
ビール 550円
各種サワー/ハイボール 450円
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。また、価格はすべて税込です
広島お好み焼き 海
- 電話番号
- 03-3786-0688
- 営業時間
- 月、火、木、金17:30~21:00(L.O.20:30)、土日 11:30~14:00/17:30~21:00(L.O.20:00)
- 定休日
- 水曜(不定休あり)
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※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。