幸食のすゝめ#100、だしの行間には幸いが住む、千歳船橋。
「月曜日の夕方4時に、築地の場外(市場)端の交差点で!」
今はもう巨大な施設に変わりつつある宮下公園の屋台で、酒の勢いに任せ、そんな約束をした記憶は確かにある。だが、まだ明るい時間にいったいどこに行くんだろう。
その頃はまだ大江戸線はなかったから、日比谷線の築地で降りて本願寺を越え、不安な気持ちに包まれながら交差点に辿り着くと、屋台の店主、小宮正嗣さんが元気に手を振っている。
これから紹介する店に対して、よっぽど自信があるのだろう。その笑顔は限りなく明るい…。
「歩いて勝どき橋を渡るのも楽しいんですが、もう開店してるし、色々売り切れちゃうとイヤだから、ここからタクシー拾いましょう」
午後4時に売り切れ? 心の中を疑問符でいっぱいにしながらタクシーへ。あっという間に到着した店は勝どきの交差点に建つ小さな一軒屋、扉を開けると、なんと土間の立ち飲みだった。
僕はまだ20代の終わり、小宮さんは4つ下、店に入ると一斉に先輩たちの視線を浴びた。
「とりあえず、生湯葉とまぐろ、あと生うにの牛巻き、蕪(かぶら)蒸しも(蒸し器に)入れといてください」
頼み慣れた流暢なオーダーが終わると、息子さんだろうか、カウンターを仕切っているロン毛の若者が聞く。
「飲み物はボールでいいの?」
その後、11杯もお代わりしたボールことウィスキーハイボールの酔いのせいか、その夜食べた料理と凛とした店の空気感、色っぽい大将の手捌きのすべてが、まるで夢の中の出来事のようだった。
人生を変えた、ある店との出逢い
店の名前は『かねます』。立ち飲み割烹の頂点として今では高名な店だ。
2019年末、惜しくも大将の前納(まえの)さんは他界されたが、店は今では短髪になった息子の洋一さんと京都で修業した板前の“まさやん”の2人で引き継いでいる。店は何度かの仮店舗での引越しを繰り返し、現在は駅直結の「勝どきビュータワー」の1階、いつも行列ができている。
初めての夜、『かねます』で食べたものは、どれも驚愕のメニューだった。
「生湯葉」(写真上)には椎茸煮と百合根、海老、アワビ、銀杏などが添えられ、だしでのばした吉野葛がかかっている。
「まぐろ」は本まぐろの脳天の身を香り高い海苔で無造作に巻いたもの、ただしその大きさは通常の太巻きにしか見えない、もちろん中に飯が入っている訳ではない。
後に店の名物になり、日本中で真似された「生うにの牛巻き」(写真上)は、選び抜いた霜降りの肉に溢れんばかりの雲丹をふわりと巻いたもの。注文してから丁寧に蒸される「蕪蒸し」の中にも、ぐじ(甘鯛)や百合根が潜んでいる。
思えば、小宮さんの屋台で出された秀逸な蒸し物は、この店のオマージュに違いない。
「最初に『かねます』の料理に出逢った時、和食ってこんなに力強いものだったんだ! と、心の底から打ちのめされたんです」
その言葉の通り、一軒の店との出逢いが小宮さんの人生を180度変えてしまう。
洋から和へ、屋台からの出発
その頃、岡山のホテルから東京新橋のホテルに転勤した小宮さんは、西洋料理のキッチンから早朝のベーカリー勤務に担当が変わる。
朝はとびきり早いが、夕方からはフリータイム。その時間を利用して足繁く通い詰めたのが、当時勝どき橋の交差点にあった『かねます』。とにかく、自分の舌と目で名人の技と叡智(えいち)を学び抜いた。
材料の仕込み方、だしの取り方、旬の素材を活かし切る粋な盛りつけ。やがて、自らの腕を試すためにコックコートを前掛けに変え、渋谷宮下公園で割烹の屋台を引き始める。九州生まれだったから、屋台の文化には馴染みがあったし、恵比寿駅前で素晴らしい料理と酒を給していた伝説の屋台『由紀子』の和食版もやってみたかった。
毎朝、築地に出かけて立派な鯛を一尾仕入れる。かぶと蒸しから潮汁(うしおじる)まで、鯛一尾を余す所なく使い切る公園の屋台は、近くの食通やクリエイターたちの口コミで少しずつ有名になって行く。
その後、屋台から店舗になった『まる旨や』を経て、フードディレクターを志してNYに渡米。近郊ニュージャージーの生産者たちと、NYの都市生活者との食の蜜月を体験して帰国。三宿で野菜料理中心の和食『GOKAKU』を開店し、野菜料理ブームの先鞭を切った。
やがて青山にも店舗を増やし、TVなどのマスコミでも活躍したが、絶頂期の店を畳んで料理家・コンサルタントとしての道を選ぶ。
『嘉六(かろく)』はいくつもの料理店のプロデュースやメニュー制作に携わって来た小宮さんが久々に開いたリアル店舗だ。もちろん、主役は旬の野菜。だが、それ以上に重要なラスボスが存在する、「だし」だ。
満を持して開かれた、久々のリアル店舗
「料理塾 嘉六、料理屋始めます」という知らせが届いたのは、令和元年の10月末。
小宮さんは、それまでの1年間、素材を知り、料理の理(ことわり)を学ぶ料理塾を開き、「身体と心にしみるおいしさ」を多くの人たちに伝えてきた。
『嘉六』はそんな彼が自身の料理の集大成を供するために開いた小さな割烹だ。
そこで出されるものは、料理塾で一般の人たちに教えて来た料理の元々の姿。つまり、家庭料理にデフォルメする前のプロの料理だ。
もちろん、今までと同じように、季節の野菜と徹底的に向かい合うため、四季折々メニューは変容して行く。そこに白に限定した自然派ワインがペアリングされる。
ある日の献立を覗いてみよう
この日は「だしとワイン」というイベントで、一つひとつのメニューにそれぞれのワインがペアリングされた。
最初に出される強肴(しいざかな)は、『かねます』仕込みの「百合根饅頭」(写真上)。
濃厚な饅頭のうまみに対向するため、だしは鮪節と利尻昆布で仕立て、くずあんにしてかけられる。そのインパクトをさっぱりと流すように、国産ワイン『ヒトミワイナリー』の泡。
続く野菜小鉢、「埼玉小川町産の小松菜、油揚げと菊花のお浸し」(写真上・中)には、真昆布と鰹節のだし。「胡麻寄せ豆腐」(同・右)には、濃厚な混合節の合わせだし。「蓮根の揚げ煎り」には、昆布醤油を合わせる。
野菜全体を、優しくすっきりと抱きしめるのは、『アンドレ・ロレール』のリースリング。ドイツに近いアルザスからの1本だ。
主菜の「沖縄豚ロース」(写真上)は、昆布たまり麹に軽く漬けて、葱とセロリの香味野菜が添えられたもの。力強い沖縄豚の味わいを麹がやわらかなヴェールで包む。
ここで登場するのは、現在注目を浴びているジョージア(旧グルジア)のワインだ。白というより、エボニーの豊穣な色合い。
ラストには、野生の猪を使った「沢煮椀」(写真上・中)が登場。羅臼昆布と混合節の強いだしでまとめられ、塩むすびが付く。
合わせるワインは再びジョージア。
ジョージアワインブームの中心人物、ジョン・ワーデマンの「フェザンツティアーズ」(写真上・左から2~3本目)、ジョージアの固定品種だけを使い、クヴェヴリ(素焼きのカメ)で醸された力強くも繊細な味わいがジビエを包み込む。
「フェザンツティアーズ」とは、雉(きじ)の涙。ジョージアでは、おいしいワインができあがると雉が泣くという諺(ことわざ)があるそうだ。
だしの可能性を究める町割烹
濁りのない澄んだうまみを持つ利尻昆布と、力強いコクを持つ羅臼昆布、双方に通じる汎用性を持つ真昆布。その3種の昆布に、血合いを取った鰹節、血合い付きの鰹節、鮪節を使い分けることで、あらゆる素材の最良な個性を引き出すだしのマジック。
和食の本当のおいしさを演出するものは、丁寧なだし使いにあることを知らせてくれる住宅街のリーズナブルで気軽な割烹。『嘉六』は、近年注目を浴びている町寿司の割烹版。ありそうで、実はなかなか巡り逢うことがなかった町割烹だ。
昼には『ごはん屋十六』として、だしにこだわった「かしわうどん」を出している。
素材に合わせて選び抜かれただしの行間に垣間見える、日本の四季の色合い。それこそが、自然の恵みに溢れたこの国に生きる幸福に違いない。
だしの行間には、幸いが住んでいる。
【メニュー】
<コース>
選べるおすすめ野菜料理のコース(野菜小鉢より3品、野菜料理より2品、主菜) 2,800円
お椀、香の物セットは+400円~
<単品>
野菜小鉢 400円~
野菜料理 800円~
(季節の献立例は公式サイトからご覧ください)
おつまみ 500円~
旬のお刺身 1,300円
鹿児島産黒豚ロース肉醤油漬け網焼き 1,600円
宮崎産A5和牛ランプ肉ステーキ120g 2,800円
かしわ南蛮うどん 900円
かしわ南蛮せいろ 1,000円
(お昼のうどんもご希望でお出しします)
<ドリンク>
グラスワイン 680円~
ボトルワイン 4,000円~
日本酒 680円~
焼酎 650円~
ビール 450円~
ノンアルコールドリンク 400円
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。また、価格はすべて税別です。
ごはん屋十六時おり 嘉六(かろく)
- 電話番号
- 03-5451-7716
- 営業時間
- (金土日月火)11:30〜14:00(L.O.) / (木金土+隔週水)18:00~21:00(L.O.)
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。