酒場とお客の良き関係について【賢人・岩瀬大二】
酒場とは何か。飲食店、レストランとは何か。この機会に「どうしても」私の思いを書き綴っておきたい。最初にお断りしておくと、このコラムは2020年3月31日に書いたものだ。公開され、あなたにこのコラムを読んでいただいている時、この状況がどうなっているのかはわからない。できれば、このコラムを、なじみの酒場に向かう電車で、今日のメンバーを待つレストランのテーブルで読んでいただけているような状況であってほしい。
なじみの酒場に着いたら閉店していた、予約をいれようとレストランのWEBを開いたら閉店のお知らせ。それだけは避けたい。書いてはみたけれどあなたに読んでいただいた時には実にピンボケな印象のコラムになっていれば、むしろ幸せだ。以下、飲食店、レストランも「酒場」という言葉に含ませていただく。
行くべきか、行かざるべきか……
3月31日の夜。酒場は、社会における責任と自分たちの暮らしとの間で葛藤し、悩み、生きている。酒場を愛し、利用してきた私たちもまた、その葛藤や悩みに共感しながらも、しているからこそ、社会における責任と自分たちの暮らしと、その店を愛し、支えてあげたいという気持ちの中で葛藤し、悩み、生きている。
行きたい、でも行くべきではない。自分たちも精一杯。だから悩む必要はないのだけれど、でも、今まで自分たちに生きる力と喜びを与えてくれてきたあの店に行かないのは不義理なのか。クラウドファンディングに参加しないのは薄情なのか。そんなことはない。ないはずなのだけれど、やはり悩む。もしかしたらあの酒場は私のことを不義理、本当の常連ではないなと思っているのではないか。そう思われたなら仕方ない、と、そう簡単に割り切れるものでもないのだろうし、割り切れるぐらいなら悩まない。でも、「お互い様」という言葉を、軽いものではなく、もっと大切な言葉としてもっていれば、お互い、気持ちだけは楽になるはずだ。
そもそも酒場と私たち客の関係は「お互い様」だ。お互いがあってこそ成立する。それは美味しいものをいただき、良きサービスを受け、その対価を払う、対価に対して美味しいものを出し、サービスを提供するというだけのことではない。
「旅の人」という文化
富山の方言で「旅の人」という言葉があると聞いたのは6年ほど前になるだろうか。いい言葉だと思った。旅の人は文字通り旅行中の人という意味でもあるが、富山で使われるこの言葉にはとても深い意味がある。富山はもともと保守的な土地柄。なのでしばらく住んでいる人でさえまだ旅の途中の人と呼ばれる。10年でもまだ旅の人。でも、これはネガティブなことだけではない。
富山は旅の人をとても大切にする。それは保守的な土地だからこそ情報や新しい発想が大切で、それがあって初めて自分たちの土地や伝統、文化が守られることを体験的に知っているのだ。伝統や安住は新しい知見、発想を得てそこから刺激を受け、取り込むことでこそ生まれる。瞬間風速、脊髄反射的に流行に反応するのではなく、咀嚼して取り込む。保守的に見えてその保守のために柔軟。保守的と言われながらも一見の存在を大切にする文化があるのだ。ちなみにその逆パターンとしての富山の知恵が薬売り。富山から全国を回り、売るだけではなく、全国の情報を持って富山に帰ってくる。
ある意味ムーミンの物語。スナフキンとムーミン谷の住人の関係なのかなとも思う。押しつけを嫌い、旅と一人の時間を愛する放浪の人であるスナフキンだが、暖かい季節になればムーミン谷にやってきて、旅の思い出や経験を語らい、歌い、住民や親友のムーミンと心からくつろぐ。彼はムーミン谷の住人とはもともと縁戚だけれどただその血縁に縛られているわけではなく、外の世界を軽やかに見て生きている。外の世界では発見の旅があって、ムーミン谷ではくつろぎがある。
スナフキンがムーミン谷にやってくる理由(わけ)
酒場と私たちの幸せな関係は、富山で言う旅の人、そしてムーミン谷とスナフキンの関係なのではないかと思う。「お互い様」。店は守るべきものがあり、客は自分の楽しみ方がある。私たちは酒場という場でなにかを知り、幸せな宿木の時間を過ごす。酒場は、ただお金を落とし、入りびたる客ばかりではなく、自分たちの目指すこと、提供したいことに対して、なにかを与えてくれる人との出会いを、日々に生かす。会話、笑顔、適量を越えてもなお幸せそうな酒と食。それが一致した瞬間にお互いの喜びがあるのではないか。
初めてのローカル酒場、いつもの店、それは変わらないと思う。対価の価は価格ではなく価値の価。東京から旅に出て出会ったローカル酒場で私はその土地と文化と物語を知り、それが自分の物語になる。もしかしたらその酒場の大将や女将、若いスタッフ、常連客たちは見知らぬスナフキンとの時間を、彼らの物語にしてくれるかもしれない。すべてがロードムービー。お互い様のロードムービー。
スナフキンは言う。「あんまり誰かを崇拝することは、自分の自由を失うことなんだよ」。いろいろな旅をして、いろいろな酒場に出会い、そして今日、なじみの店にいく。明日は明日で、自分の気持ちが向くままにあの店にしようか。「ぼくたちは本能にしたがって歩くのがいいんだ」。酒場もそうだ。「あんまり誰かを崇拝することは、自分の自由を失うことなんだよ」。スナフキンはこうもいう。「大切なのは、自分のしたいことを自分で知っていることだよ」、そして「いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ」。
それでいい。それだからこそ、その店に行く価値がある。知らないことを発見する喜び、その店の流儀に触れ、息が合えばそこが宿木になる。べたべたとした関係はお互い様ではない。
この状況において、これは、言い訳かもしれない。でも、お互い様で。酒場でも守らなければいけない人や社会はあるだろう。私たちもそうだ。そのために私たちは、そこへ行かないという決断もある。酒場から、「また来るであろうスナフキンは、今、自分の流儀を守っているんだろう」という納得がもらえるかはわからないが、どうか、お互い様、今は「ぼくたちは本能にしたがって歩くのがいいんだ」。
街に元気が戻り、赤ちょうちんに温かい明かりがともり、レストランでは会話とカトラリーの心地よいBGMが聞こえ、乾杯の声があちらこちらから聞こえる。そんな日が、当たり前のように戻ってくることを願っている。願うだけではかなわないこともわかっている。だから私たちそれぞれ、支える「なにか」で、本能にしたがって応援していけばいい。
ムーミン谷にかかわる旅の人でありたい。これから出会う場所の旅の人でありたい。それが酒場や飲食店とのよき関係になればいい。お互い様。その意味をかみしめながら、また、扉を開くことを楽しみに。