幸食のすゝめ#102、日々の惣菜には幸いが住む、荏原町。
「昨日(SNSに)上がってた、あの謎の魚って、まだありますか!?」。
夫婦で『にこ』に訪れた著名なイラストレイターのS氏が微笑みながら、オーダーする。
アトリエが近い彼は開店以来、珍しいメニューが並ぶたびに買いに来てくれる。
謎のメニューは「イワシのトマトオリーブ煮」。店主の(森下)敦世さんがインスピレーションのままに作った創作料理だ。
甘みが出るまでじっくり炒めた玉ねぎと、トマトの酸味、グリーンオリーブの塩味、パセリの清涼感が1つになって、イタリアンでも、フレンチでも、和でも、中華でもない独特のハーモニーを奏でている。
色んな料理のいいとこどりで、家庭の食卓にいつも団らんを運んできた日本のお惣菜ならではのメニュー。おかずにもいいし、ワインのつまみにもぴったりだ。ただ、オリーブとトマトソースを纏ったイワシが、まるで新種の魚みたいになった。だから、謎の魚。S氏のイラストに登場しそうなインパクトだ。
今年(2020年)2月5日のオープン以来、店に並ぶメニューの内、少なくとも1つは常に新しいメニュー。未だかつて1度も、すべてのメニューが被ったことはない。
「それだけは自分に課しているんです、毎日来てくれるお客さんもいるから、いつも新鮮な驚きがあるようにしたい」。
60代後半だろうか、開店の日からの常連さんがいる。
「これだけ材料揃えるの大変なのよ、助かるわぁ」、その言葉だけでも惣菜屋を始めてよかったと思う。
アートの海を泳ぎ疲れて
敦世さんは、岡山の街で生まれた。良質な藍染のデニムでジーンズの産地としても有名な岡山は、山海の食材に恵まれた場所だ。近年は、フランス・ローヌ地方で約20年間腕を磨き里帰りした醸造家、大岡弘武さんのワイン「ル・カノン」や、「ドメーヌ・テッタ」など、良質な国産ワインの産地としても知られる。
子どもの頃から、両親が共稼ぎだった敦世さんは、岡山の豊富な食材を使って、少しずつ料理を作るようになる。特に、春休みや夏休みは、おなかを減らした5つ下の妹のために毎食腕を揮った。お惣菜作りの基礎と、しなやかな発想力は、この頃もう身に付いていたのかもしれない。
高校卒業して京都の女子大へ、卒業後は破竹の勢いで世界進出を果たしていた今は無き巨大スーパーに就職した。赴任地を決める時、「海がいいですか? 山がいいですか?」と聞かれ、「海」と答えると、そのまま静岡の下田銀座店に就職が決まった。
3年の月日が過ぎて、「本部(沼津)に行くか?」と言われた時、ふと我に返った。本部に移動して責任ある立場に就く程に、自分は今の仕事を愛しているだろうか?
漠然と、少女の頃から憧れていたアートへの思いが再燃してきた。
美大を出たわけでもないし、専門知識なんて皆無、ただ好きなだけだ。それでも、毎朝、配られてくる新聞の片隅にある三行広告を凝視している内に画廊の募集が見つかった。
「幡ヶ谷画廊、人材求む、委細面談」、そっけない募集の後ろに自分の将来が垣間見えているような気がした。なぜだろう? 「あ、ここだと思った」。
すぐに電話、最寄り駅を聞かれる。
「伊豆急の下田駅です」、当然のことながら驚かれたが、次の日に東京へ。
面談後、晴れて入社が決まり、翌々週には引越した。それから19年カリスマ女社長の元で働く、フランスへも何度も同行した。
たった8坪だった幡ヶ谷の店は、やがて2階にも広がり、画廊の頂点、銀座にも進出。夏の軽井沢にも支店を出し、敦世さんは店長になった。
多くの作家たちに気に入られ、名指しで作品を預かり、画商としての日々は順風満帆、一抹の不安もなかった。
寂寥感の果てのキッチン
とにかく働いた、ひたすら忙しかった。お金だって、どんどん入ってきた。でも、いつも何かが足りなかった。心の中のどこかに、冷たい風が吹き抜けるような行き場のない寂寥感(せきりょうかん)。
それは、やっと帰り着いた夜中に、電子レンジで温めたコンビニご飯を食べている時に、不意に襲ってきた。たまに深夜営業のスナックに間に合ったとしたら、それがいちばんのご馳走だった。
「こんな時に、もっと血の通ったものが食べたい」、そんな思いを抱えている人は、きっとたくさんいるはずだ。その頃から、『にこ』の歴史はもう始まっていたのかもしれない。
その後、9時5時(勤務)の人材派遣会社の営業職に就き、人の妻にもなった。普通の幸せらしいものを手に入れたのかも知れなかった。でも、やっぱり寂しいのはなんだろう?
「もっと普通の接客がやりたい」、あの夏休みの日、妹が喜んでくれたように、自分が作ったもので人が喜ぶ顔に出会いたい…。また、10年の月日が流れた。脱サラした、結婚にも終止符を打った。
もう自分にブレーキをかけるものなんて、何1つない。子どもの頃から憧れていた街の惣菜屋さんをやろう。商店街の片隅にある、もう1つの我が家のキッチン。
『にこ』が始まった。
優しさで煮込まれた惣菜
『にこ』という名前は、もともと頭の中にあった。1つの皿で、野菜の栄養も、肉の栄養も一緒に摂れる煮込み料理を、店のメインにしよう。煮込みなら、和風にも、中華風にも、イタリアンにもできる。しかも、ご飯のおかずにも、ワインやビールのつまみにもぴったりだ。
煮込み料理の店だから、『にこ』。
化学調味料無添加で、お母さんたちが安心して子どもに与えられるものを作る。青もの野菜のメニューも豊富だから、ダイエットに気を配っている独り暮らしの男性にも優しい。午後6時を過ぎたら、惣菜を肴に立ち飲みもできる (緊急事態宣言発令中は自粛) 。
ワインは知り合いが懐に優しい値段の、自然に寄り添ったワインを揃えてくれている。ビール派には「赤星」と「一番しぼり」、岡山の実家から届く地酒が登場することもある。
2階には、荏原町(えばらまち)商店街が見晴らせる小さな個室もある。お惣菜をいくつかと、ワインのボトルを持って友や仲間たちとお喋りすることもできる。家族連れにもいいかもしれない。
1階と同じように、画廊時代の敦世さんが集めた銅版画などが飾られた店内は、女性らしい優しさに満ちている。
街全体のキッチンを目指して
隣の街から自転車に乗って駆け付けると、毎日の仕事は看板のメニュー書きから始まる。
通りすがりの誰もが赤い看板を覗き込み、目新しいものや、好きなメニューを見つけると店を覗く。
リクエストが多く定番になった「牛すじの四川風煮込み」の文字を見つけるたびに買って行く男性。炊き込みご飯などのご飯ものを見つけると必ず寄るおばあちゃん。新しいワインが入るとやってくる航空会社のナイスガイ…。だんだん、店は街の一部になってきた。
看板書きが終わると、今日のメインメニューをSNSに投稿。すぐに、取り置きを希望する予約電話が鳴り始める。最近は開店1時間後に売り切れて、新しくお惣菜を作り始めるのが日課になっている。
ある日のメニューを見てみよう
「手羽先と大根、玉子のおでん煮」(写真上・左)、「やわらかい鶏つくねとカブのクリーム煮」(同・右)。
「鶏ハツとセロリのレモンマリネ」(写真上・左)、「自家製レバーペースト」、「豚ロースの味噌漬けとターサイの塩炒め」(同・右)、そして「カブのまぜごはん」(写真下・左)。どれも、身体にも、心にも優しいメニューばかりだ。
それは、かつて敦世さんがデパートの惣菜売場で、揚げ物や筑前煮などこってりしたもののオンパレードでがっかりした経験に基づいている。
「また今日もお惣菜買っちゃった、そんな背徳感が一切ないお惣菜」。
敦世さんの大きな瞳の中に見える優しい眼差しのように、『にこ』の惣菜は人が人を思い遣る深い慈しみに溢れている。
日々の惣菜には、幸いが住んでいる。
<メニュー>
※日替りのため、一例です
・手羽先と大根、玉子のおでん煮600円
・やわらかい鶏つくねとカブのクリーム煮600円
・鶏ハツとセロリのレモンマリネ280円
・自家製豚ロースの味噌漬けとターサイの塩炒め500円
・カブのまぜごはん(おにぎり)180円
・自然派ワイン赤400円〜
・自然派白ワイン600円〜
・瓶ビール550円
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。また、価格はすべて税別です
にこ
- 電話番号
- 03-5498-7225
- 営業時間
- 平日15:00~22:00、土日祝13:00〜22:00(※緊急事態宣言発令中は20:00閉店、ドリンク自粛中)
- 定休日
- 水曜日+不定休
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。