レストランや酒場文化の「変わること、変わらないこと」【賢人・岩瀬大二】
わずか3カ月で、ここまで変わるのか。それが正直な感想だ。想像もしていなかったことが、酒場で、レストランで、起こった。「人との距離感」だ。
私は、全国いろいろな場所の被災後の飲食店を取材してきた経験がある。閉店を余儀なくされたり、幸運にもなんとかそこから立ち上がることができて新たな場所で再開したりといった店があった。人生の分岐点を唐突に突き付けられた店だ。
今回、私が知る飲食店でも、補償が及ばず、努力も実らず、閉店を余儀なくされた店も少なくない。また、このタイミングで、傷口がひどくなる前にと商売をやめる店もあった。
今回の新型コロナウィルスの影響下でのこうした状況を災害とみる向きもあるが、どちらも取材してきて感じるのは「災害から立ち上がる」ことと、今回のことは大きく違うということだ。
まず「どんどん外食に行こう!」「被災地で経済を回すために現地に行って協力しよう!」そして「祝杯! 肩を組んであげよう!」ということが決して正しいこととはいえない状況であるということ。明確な出口が見えない。
POSTともWITHとも言われるこれからの時代。時代というものがまさか一つの感染症、しかも日本においては(お亡くなりになられた方、重症化された方、その親族や友人・知人のみなさまには大変不幸なことであったことは間違いない)、病気という意味では、多くの人が風邪やインフルエンザのような症状としての実感がないまま社会が変わるということは経験のないことではなかったか。
そしてこの変わる時代の様式でもっともシンボリックなものが「人との距離感」なのだ。
酒場やレストランは今までとは違う利用シーンが生まれていく!?
人との距離感は物理的でもあり精神的なものでもある。そして離れること、離すことは決して悪いことばかりでもない。
少し横道にそれるが、テレワークの推進による企業活動、仕事環境の変化はかなり大きく社会のありようを変えていくだろう。
会社における人間関係、就業形態を変え、郊外や地方において家族とのくらしをしながらでも十分に労使双方にメリットがある働き方ができることから生まれる、郊外・地方ライフの新しい文化と経済、一方で都心においては就労人口の低下によるオフィスを中心とした賃貸・不動産のマイナス成長が考えられる。
飲食業界においてもその時代においては大きな変化が起こる。
都心やターミナル駅の繁華街、密集、赤ちょうちんが並ぶ路地、という光景は、10年もすれば「テーマパーク」「観光地」となっていくのではないか。そもそも都心で常に就業する必要がないのであれば、ノミニケーションであったり、一人の時間を癒す時間も場所も今ほどは必要がなくなる。
さらに、肩寄せあって、知らない人と気軽に杯を重ね、箸をつつきあうような関係も、したい人、遠慮したい人に大きく隔たりが生まれる。以前の距離感が遠慮もてらいもなく戻ってくる人と、もう戻らない人は確実に存在する。
ことが感染症から始まったものだけに分煙、禁煙の比ではない。タバコなら店外に持ち出すのは煙の残り香だが、それでは終わらないからだ。
少しネガティブに感じる話かもしれない。まだまだ飲食店において細かい点で、どうしていくのだろうかと気になることは山ほどある。
大皿、シェア、これちょっと飲んでみたらというお試しの回し飲み、なんてところまで、気になりだしたら止まらない。
乾杯の声は残ってもジョッキ同士がぶつかるあの音は遺物になっていくのだろうか。カウンターを隔てるカバーやシールドも、常連となるようななじみの店では、安心と天秤にかけたとしても面白いものではない。
だが、だからこそ今までにない、または細々としてあった酒場やレストランの、心地よく、楽しいトレンドやトピックが顕著になり、今までとはまた違う利用シーンが生まれていく、という喜びも感じている。その中には、本来飲食店というものの本質的な喜びや正解も含まれている。
食のトレンドは地域経済や社会、生産者への貢献という目的で地方へシフトする!?
まず、飲食店が家族や地域のコミュニケーションの場としての機能を持つということだ。
もちろん現在もそういう店はたくさんある。そこからもう一歩進んで、都心だからこそ味わえたもの、感じられたものがあなたのくらす街、地域、家族のそばにやってくる。
以前であれば、シェフやオーナーたちの中には「都落ち」という思いをもってその地を選んだかもしれない。
しかし、自分たちのくらしを見つめなおす、いわば好機としてとらえる飲食に関わる人も増えていく。
自分たちも家族のそばにいたい。そこで仕事をしたい。そこに、テレワークの推進でより郊外や地方、急行や特急が止まらなくても、逆に自然のそばで家族と共にくらしていくことを選択する、都心を拠点にし、都心の飲食レベルを体感している人たちが集まっていく。
ヨーロッパの田舎町は、忙しく生きる私たちには不便すぎるほど不便だが、週末、大人も子供も集まってくるレストランはある。おばちゃんが一人でやっているような庶民的な店だ。
そこから車で少し行けば星付きのレストランもある。日本もそうなっていくのではないか。
東京を軸に考えれば、北関東、甲信越にはそういう世界が広がっていくだろう。自然があり、不便であればこそ、そこにはいい食材がある。シェフが大いに腕をふるえる広い厨房も確保できるだろう。
そして腕をふるう人たち、サービススタッフは家族とともに時間をすごせ、長時間労働と通勤のストレスから解放され、より心豊かな料理やサービスを提供できる。
3密というキーワードとも無縁に近い環境もある。
そして、都心やより都心に近い郊外では、その店に行くという旅と食の楽しみが増える。広々とした空間、地元の食材、ゆるく豊かな時間は、いわゆる免疫力にも作用しそうだ。
こうした店は、売上のポートフォリオと空いた時間での意欲という両面、そして地域経済や社会、生産者への貢献という目的で、都心やより都心に近い郊外向けにも展開してくれるだろう。
例えば小さなサテライト的な店舗を共同で出店する、カフェに料理や加工品を提供する、シェアレストランでポップアップとして定期的に出店するといったムーブメントが起こるかもしれない。
産地直送という言葉は、農産物や海の幸そのものだけではなく、産地で活躍し、産地に近い目利きの客が味わっている料理、という意味をも含んでくるのだ。
変わっていく飲食店でいえば、安心・安全というキーワード。今は飲食店においては大変な取り組みだが、それを越えて自然な取り組みになっていく。
飲食店において安心・安全は、店を清潔に保つことから食材そのものの安全性まで広義に及ぶ。もう少し広げればスタッフの健康や防犯まで。
原点回帰なのか、飲食店の本質的なものなのか、いずれにしても「意識的な」徹底のフェーズは「無意識な」自然なフェーズとなって、私たちにとってはありがたい環境になっていく。
これからは飲食店の本質的な楽しみ方が問われていく
厳しい言い方をすれば、WITHコロナの時代にはいってから、その時代だからこその淘汰が始まる。
利用者の意識がかわり、そのことにより行動様式がかわり、それが次第に文化になっていく。その変化に対応、順応できるのか? いやむしろ飲食店が新しい行動様式、文化を創る先鞭になるのかもしれない。
私は今でも肩を寄せあって、初めて会う地元客と酒を酌み交わし、カウンターを挟んで大将のおススメを聞きながら笑顔で杯を重ねたい。それは自分にとって発見や刺激と、癒しの両面を同時に感じられる豊かな時間だからだ。
レストランで一流の腕とホスピタリティを受けながら、家では味わえない料理とコンディションの整ったワインを楽しむ時間、そこに同席する人やソムリエとの会話を楽しむ。この距離感は変わらないし、変えたくもない。
ただ、振り返ってみれば、そう感じた場所、人たちは、自分たちのできる限りの安心・安全に努力し、意欲をもって、ここに来る誰かのために、努力し、創意工夫し、笑顔で迎え入れてくれていた。
だからこそ居心地よく、発見や刺激と、癒しの両面をくれた飲食店だったのだ。
彼らの元気が自分にとっての明日の元気になっていたし、彼らの努力が自分のやる気にもなっていた。美味しい、楽しいは、改めて思えば、その飲食店の努力によって生まれていたのだ。
だから、大丈夫。
トレンドも、距離感も大きな変化となるけれど、本質的な飲食店と私たちの関係は崩れない。そうした飲食店は時代に順応し、変わらず私たちに幸せを提供してくれるだろう。それに私たちも応えたい。
生ビールのジョッキが触れ合う乾杯の音だって、ちょっとした工夫でできることもある。パワハラまがいの宴会から距離を置いて、親しい人との豊かな時間を過ごせることで、飲食店に楽しく足を運ぶこともできる。
それは本質的な楽しみではないだろうか。
失われると感じることもあるかもしれないが、新しく生まれることにも期待していきたい。
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