幸食のすゝめ#106、街の酒屋には幸いが住む、二子玉川
「ねぇ、コレって萩野さんが『野村ユニソン』時代に入れたんじゃないですか!?」
人懐っこい顔で微笑みながら、ムーミンこと千葉(芳裕)さん(写真下・左)が一本のワインを大切にセラーから運んでくる。「野村ユニソン」は、25年間に渡ったインポーター生活の4つ目、「ヴィナイオータ」の前に萩野(浩之)さんが勤務したインポーターの名前だ。
ワイン業界の先輩でもある萩野さんが今晩『NEW VALLEY(ニューバレー)』にやって来ると知って、あらかじめ用意していたのだろう。萩野さん本人でさえ、久しぶりに触れるボトルに興奮している。
カウンターで飲んでいたインポーターや酒販メーカーの社員、近隣から訪れたワインラバーズたちの視線が一点に集まる。
▲ムーミンこと千葉さん(左)と、スタッフのこっちゃん(右)
2020年5月末の開店以来、ここにはあらゆる垣根を取り払ったワイン好きたちが集まってくる。誰もが千葉さんの豊富な知識と、温かい人柄、彼の視線で選ばれたワインに惹かれているからだ。その光景は、実は10年くらい前のある時期に奥沢の千葉邸で繰り広げられたものだ。
そこは、ムーミンという千葉さんのあだ名に因んで「ムーミン谷」と呼ばれていた。
新しいムーミン谷の誕生
それは、ある種の勉強会であり、ワインの塾のようなものだった。
まだまだ若いインポーターや、酒屋に務めるアルバイト、まだまだ若手のソムリエたち、ワインを勉強したい新米シェフたち、ただただワインが好きな人たち。それぞれの立場は違っていても、みんな無類のワイン好きだった。
1人で買えるワインには限りがあるから、お金を出し合い、いろいろなワインを入手しては、みんなで味わい、感じるままをディスカッションした。まだお金がない後輩たちは、食器やグラスを洗いながら参加した。次から次へと飲みたいワイン、飲んでみたいワインがあった。
当初は話題になり始めたばかりの自然派ワインを取り扱うインポーター、途中からはイギリスを代表する老舗ワイン商。千葉さんの立場が変わり、シェフやソムリエたちの立ち位置が変わっていくにつれてみんなが持って来るワインも変わっていった。
でも、たった一つ変わらないものは、自分たちが本当に好きなワインだけを飲み、語り合うという意志だった。
今、『NEW VALLEY』の壁には、『lost in translation』の小さなポスターが飾られている。東京で撮影された、ソフィア・コッポラの切なく美しい映画だ。
言葉にすればする程、説明を重ねていく程、ワインの本質は遠ざかってしまう。自分がその時感じたもの、味わったものがすべて。だから、大切な一本をここで見つけてほしい。
ポスターの後ろから、そんな千葉さんの声が聞こえるみたいだ。
楽しさ溢れる新しいワインの世界を
千葉さんは、高校卒業後、エスニック料理店やワインバーに勤務。 もっとワインのことを知るために上京し、2005年に「ヴァンパッシオン」に入社。高級ブルゴーニュワインなどの輸入販売に従事する。 2009年には「ラフィネ」へ、小さなこだわりのワイナリーの輸入販売を通して、自然派ワインに開眼。その後、IT企業での勤務を経て、イギリスの老舗ワイン商「ベリー・ブラザーズ&ラッド」に7年間勤務する。
途中からは、15年間いつもワインが中心の仕事だった。しかし、インポーターとしての千葉さんには、ある種のもどかしさがあった。自分の言葉を、直接エンドユーザーであるお客さんに届けられない。
「インポーターは、BtoBのビジネスなので、どうしても制約がかかる。インポーターの限界にぶち当たるんです。本当に自分がいいと思うもの、おいしいと思うものをお客さんに届けられない。そうではなく、ちゃんと自分の言葉で、実際に飲む人まで届けたいと思った。その方が、お客さんにとって価値があるものを、もっと楽しく届けられるようになります」
従来のワインの世界は、スクールに通ったり、本を読んでは勉強したりする世界だった。ソムリエたちが呪文のように繰り返す、ワイン業界独自の語彙(ごい)を学び、いたずらにワイングラスを揺すった。そんな「楽しさが置き去りにされているワインの世界」にさよならを告げるために生まれたのが、千葉さんの新しい「ムーミン谷」、『NEW VALLEY』だ。
古い商店街の道の駅に
酒屋は、国民的な長寿漫画『サザエさん』に出てくる唯一の職業だ。御用聞きにくる酒屋さんは酒を売るだけでなく、様々な役目を果たしていた。醤油やみりん、味噌が切れたら、注文したりかけこむ場所であり、冬には石油ストーブ用の灯油なども配達した。
夕暮れ時には、仕事に疲れたお父さんたちが角打ちで一杯やり、明日の英気を養って帰路についた。地域の飲食店の鍵を預かり、補充するのも酒屋の仕事だった。時代が流れ、かつての街の酒屋が地酒専門店やワインショップになり、果たせなくなった役まわりを復活させたい。
だから、『NEW VALLEY』はワインショップではなく、あえて酒屋を名乗る。いつも二子玉川という街の暮らしの基点にある店として機能したいからだ。長く続けていくために、いつも客のそばにいたい。
「朝から晩まで、ずーっと開いてる店をやりたかったんです。そして、どの時間帯にも好きなように使ってほしい」
千葉さんの言葉通り、午前中店を開けると夜勤明けの看護師さんが愛犬を連れて散歩にやって来る。近くの多摩川まで往復して、帰りに大好きな自然派ワインの白を一杯だけ飲んで眠りにつくという。
昼には、一度使って手放せなくなった愛媛・大洲市の麦味噌「たつみ」を買いに来るおばあちゃんもいる。
夜、グラスワインで盛り上がっているグループの横で、いつも静かに濃いカフェラテを飲んで帰る紳士もいる。
「玉川タカシマヤ」のすぐ裏に位置する、二子玉川商店街。お菓子屋、定食屋、自転車屋、町中華、昔から二子玉川に住む人々の暮らしを支えてきたこの商店街には、さまざまなお店が軒を連ねている。その一角に誕生した『NEW VALLEY』は、やがてこの商店街の道の駅になるだろう。
いつも街のハブとなる酒屋へ
『アヒルストア』など数多くの人気自然派ワインの店が点在する奥渋には、『野崎商店』の存在が欠かせない。同じく、鎌倉を自然派ワインの街へと導いたのも『鈴木屋酒店』の存在を抜きには語れない。しかし、膨大なワイン人口を抱える世田谷区には、気軽に自然派ワインを購入できる酒屋が存在しなかった。
しかも、ウィズコロナの時代を迎えて、世の中の価値観は目まぐるしく変わろうとしている。
「自動運転とか、ドローンとか、ウーバーイーツとかが普通になって来て、酒屋の立ち位置もどんどん変わっていくと思うんです。従来の酒屋は配送の優位性と、規模が求められた。でも、これからは『赤、一本ちょうだい!』『はーい』って感じでドローンを飛ばす時代が来るかもしれない。そうすれば、送料一本50円とか限りなく安くできる。その時は、店主の眼と舌、お客さんとの結びつきがいちばん大切になるはず」
店内の奥の壁(写真上)には約30本、その日のおすすめワインが並んでいる。
そして、その棚を開けると『NEW VALLEY』自慢のセラー、常時500種類近くのワインがストックされている。
ブルゴーニュから、自然派まで様々なワインを見つめてきた千葉さんの店には、ブルゴーニュを代表する『ジョルジュ・ルーミエ』から、奇跡のワインと呼ばれる自然派の雄クルトワ親子の『レ・カイユ・デュ・パラディ』まで、多くの人たちの嗜好に応じたワインが揃っている。開けられているグラスワインの種類も価格も様々だ。
「だから、立ち飲みとか角打ちというよりも、僕の試飲に付き合ってもらうという形なんです。ここで体験を共有して、感じたままのことを会話しながら、自分の一本を見つけてほしい。ワインショップというと敷居が高いかもしれないけど、ここは街の酒屋だから、醤油や味噌を買いに来たついでに、僕が注ぐワインを一杯、バリスタが淹れたコーヒーを一杯飲んでいってほしい」
街の酒屋には、幸いが住んでいる。
【メニュー】
・グラスワイン/クラフトビール 500円~
・みたらしナッツ 300円
・無添加サラミ 700円
・ひよこ豆と生ハムの煮込み 600円
・オリジナル焙煎コーヒー 400円
・芦屋の紅茶専門店Uf-fu紅茶 500円
・愛媛梶田商店たつみ麦みそ 610円
・千葉馬場本店酒造の最上白味醂 850円
・北海道チーズ工房白糠酪恵舎のチーズ各種 600円
・FEVER-TREEトニックウォーター 260円
NEW VALLEY(ニューバレー)
- 電話番号
- 03-6431-0132
- 営業時間
- 10:00~23:00
- 定休日
- 無休
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。