幸食のすゝめ#113、街道の立ち食いには幸いが住む、武蔵小山
「えーっ、もう全部なくなっちゃったよ」
そのまま手渡されたアオリイカとウニの鮨を口に頬張った瞬間、目をまん丸にして若い女性がつぶやく。今日は仲がいい幼馴染と、少し特別な休日にしたくて鮨を食べに来た。今まで、こんな風に女性同士が気軽に楽しめる鮨屋なんてなかった。
もちろん、ある程度の敷居の高さも鮨屋の醍醐味かもしれない。でも、懐にも優しくて、リラックスできる立ち食いの鮨屋なら、1人でも、友だちを誘っても、気軽にチャレンジできる。Tシャツとキャップでカウンターの中に立つ職人たちが、若く溌剌としているのも親近感がある。
中原街道寄りのカウンターでは、もう何度も足を運んでいる地元の老夫婦が慣れた手つきで鮨を口に運ぶ。「づけと小肌、2貫ずつ、お茶で」、少しおなかに余裕があると、そこにアナゴが加わる。さっと食べて、さっと帰る。その後ろ姿には、長年鮨を食べ続けてきた凛とした空気が満ちている。その姿を見送りながら、大将の(佐々木)男駆さんは思う。『ブルペン』を開いてよかった。
わざわざ食べにいく立ち食い鮨
タワーマンション建設で刻々と姿を変えていく武蔵小山の巨大アーケード、パルム商店街を抜けるとぶつかる中原街道。歩くと、大人の足で10分強、反対側、戸越銀座の駅からの方が少しだけ近い。平塚橋交差点に近い街道沿いに、コロナ禍の中、新しい店の建設が進んでいた。
シンプルで洒落た外観と、スタンディングらしいカウンター。カフェだろうか、新しいタイプの立ち飲み屋さんかもしれない。近所の噂が先行する中、焼き杉を使った立派なつけ台が運ばれた辺りで、立ち食いの鮨屋だという情報が伝えられた。しかも、ほど近い不動前の高級店『鮨りんだ』の系列店だという。
やがて、開店の日、10月1日にはたくさんの花が並んだ。中には、日本全国から注文が殺到する、豊洲のマグロ専門仲卸『やま幸』のものもある。本店の『鮨りんだ』同様のマグロが、立ち食いで食べられるのだろうか。やがて、『ブルペン』の名前は、近隣だけではなく東京中の鮨好きたちの話題になっていく。
鮨の原点に帰って行く場所
店名の『ブルペン』は、野球場で投手がウォームアップする場所を指している。高級鮨の板場(マウンド)で活躍するための仕上げの場だ。数多くの鮨を投げ込んで、若い職人たちが巣立っていくための場所として、これ以上のネーミングはないだろう。
もともと本店の『鮨りんだ』も、たくさんの握り手たちがいて、若い才能たちが闊歩する場所として知られている。『ブルペン』はさらに、若い職人たちが活躍できる場所として生まれた。大将の男駆さん自身も、日本料理店で6年間、魚の目利きと仕入れについて学んだ後、本店で鮨職人として2年修業して『ブルペン』を任された。
江戸のファストフードとして、庶民たちに愛された鮨をもう一度多くの人たちに親しめるものにすること。立ち食いというスタンスは、鮨誕生の頃の気軽さと楽しさを再現し、万人に愛される存在を目指すだけでなく、もう1つの願いもある。厳しく、長い下積みが不可欠という鮨職人のイメージに一石を投じたいという思いだ。
もっと果敢に若手たちにチャレンジしてほしい。どんどん『ブルペン』で鮨を投げ込んで、年功序列ではない活躍のチャンスを与えたい。
『ブルペン』のコースは、2本。「おまかせ(4,000円)」と、大将が厳選したネタを駆使する「ダンク(7,000円)」、共に握り鮨11貫と椀がついている。もちろん、鮨に慣れたお客たちには1貫からのお好みも可能だ。
ドリンクは缶とワンカップ、あくまでもカジュアルに鮨の魅力でダイレクトに勝負する。
本店同様の高級素材が、ランチでも半額以下、ディナーなら三分の一という価格設定にオープンからたくさんの人たちが訪れている。
オープン時は、立ち食いという性格上、予約なしでふらりと立ち寄れることを目指したが2時間待ちのお客の行列に、食券制を導入。今は電話予約と、店での予約に変わり、I時間の入れ替え方式に落ち着いている。しかし、日々人気が高まっている現在、予約方法が変化していく可能性もあるので小まめに店のSNSをチェックしたい。
さて、ある日の「ダンク(コース)」を覗いてみよう。
立ち食いの常識を覆す素材と技
コースの始まりは、霜降りのトロ。『鮨りんだ』同様、マグロが売りの『ブルペン』では、真っ向からマグロで勝負する。通常は見栄えのために、筋が見える断面で供されることが多いトロだが、ここでは口に当たる筋を丁寧に剥がして、薄く三枚を重ねて握る。
高級店の仕事をスタンディングで味わえる至福に思いを馳せているうちに、トロは少し硬めに羽釜で炊かれた酢飯と共にはらはらと溶けていく。立ち食いで、どんなに忙しくても、決して恥じない仕事をする。『ブルペン』の信条が伺われる第一球だ。
続いては、旬のスペシャリテの1つであるカワハギ。もちろん、新鮮な肝と共に供される。醤油と柑橘類、巧みな包丁を入れられた九条葱が口の中で一体になり、鮨を食べる悦びに包まれる。ここで使われるカワハギは、敢えて天然ではなく養殖もの。カワハギは身にクセがなく、肝だけが肥大化する養殖ものが珍重される。
天草産の天然アジは、巧みな包丁を施されて登場。いちばん新しい神経〆である「渦巻処理」を施された魚は、熟成で身のうまみだけを増し、豊穣な味わいが口に広がる。
そして、女性たちや若いカップルを狂喜させたイカウニが登場する。昨日、山口・仙崎で水揚げされたアオリイカの細切りとバフンウニ。魚だけが持つ上品な甘さの二重唱に、ここが立ち食い店であることを忘れそうになる。
美しい造形で供されるサイマキサイズのクルマエビには、黄色いシバエビのおぼろが施されている。少しずつ失われていく江戸前の仕事を残していきたいという姿勢に立ち食いのつけ台で出会い、胸が熱くなる。
近年、人気のノドグロは、鳥取・浜田の底引き漁で上がったもの。海の底深くトロール網を沈めて行う底引き漁(トロール漁)は、深い海に住む肥沃なノドグロの捕獲が可能だ。濃厚な脂のノリを、薄目の赤酢に「ヨコ井」の與兵衛(よへえ)で香りづけした酢飯がまとめ上げる。
長万部(おしゃまんべ)のホッキガイは手渡しで渡され、イクラ、人気のトロタクが畳みかける連続球で鮨の喜びを加速していく。そして、これまた丁寧な包丁を施されたヅケとアナゴで興奮のゲームセット。
おまけに、近年のカステラ玉子ではない、懐かしい卵焼きが出て、お椀。1時間1本勝負の『ブルペン』劇場の終焉だ。この時点で、多くの客たちがリピートを決意するだろう。
高級な鮨をまだ食べたことがない若い鮨ファンたちも、鮨に慣れた客たちも、これから鮨職人を目指す人も、気軽に一緒に楽しめる場所、『ブルペン』。
街道の立ち食いには、幸いが住んでいる。
【メニュー】
ダンクコース 7.000円
ブルペンコース 4,000円
お好みはI貫300円から。
ビール、レモンサワー、ハイボール 500円
日本酒ワンカップ 700円
冷茶、河野果樹園みかんじゅーす 500円
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。また価格はすべて税込です。
ブルペン
- 電話番号
- 03-6426-7970
- 営業時間
- 【昼】1部11:00〜12:00、2部12:15〜13:15、3部13:30〜14:30 / 【夜】4部17:00〜18:00、5部18:15〜19:15、6部19:30〜20:30
- 定休日
- 水・木
※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。